「真の平和とアガペー」


日本福音同盟理事長
峯野龍弘(みねの たつひろ)

 愛は、時代を超え、人類・民族・国籍・言語・風俗習慣・身分・階層・年齢・性別等の一切の相違を超えて、人類に平和をもたらす唯一の共通原理である。また愛こそが、すべての人間の心を和らげ、癒し、希望に満たす、更には人と人との心の交流と相互の固き結びつきをもたらす世界共通の心の言語である。
 そこでこの共通原理に則ることなく世界の平和や、紛争問題の解決にあたることは、あたかも法則を無視して事物を造り上げようとすることにも似て、まことに愚かな話である。またこの共通言語を使用せず和平交渉や紛争解決にあたることは、あたかも通訳者なしに、ただいたずらに身振り手振りで自己表現・自己主張するようなもので、時間が経過すればするほど、相互の間にストレスを増すばかりで、一向に埒があかない。のみならず、武力を行使し、権力によって和平を招来しようとする者は、対話を打ち切り、ただ怒りと憎しみをもって相手を攻撃、抹殺し、さもなければ相手を獄窓に封じ込めるようなもので、それは断じて平和のための解決ではない。それは制圧であって、強者のエゴの論理である。そこには心と心の通じ合う美わしい人間関係は構築されず、憎しみが増し、恨みが募り、更に大きな溝が生じ、遂には対立・抗争・戦闘となる。
 今更ここで言及する必要もないほどの自明のことだが、使徒パウロは、何がそこに完備していようとも、もし「愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。・・・愛がなければ、無に等しい。・・・わたしに何の益もない。・・・最も大いなるものは、愛である」(コリT、13:1〜3、13)と言ったが、今の時代ほどこの言葉の重み、重要性を痛感させられる時代はない。愛の喪失は、まさに終末の兆候である。このことを思う時、愛は決して自明の理ではない。今日平和を論ずる人々の間においてさえ、愛が等閑にされ、それに代えて個人や国家の利益や自己主張、換言すれば人間の欲とエゴの論理が優先され、力の論理が大手を振って罷り通っている。
 そこで今日の世界を混乱させているイスラム教、ユダヤ教、キリスト教の原理主義者たちの抗争を思うにつけ、神観や教義論争、果ては所詮醜い支配欲や宗教エゴに過ぎない対立を止めて、宗教の真の本質である愛を追求し、真摯な対話をしてほしい。そうすれば、希望に満ち溢れた真実の和平の道が見えてくる。実にマザー・テレサの行くところでは、いずこにも平和の油が滴り落ちた。愛が満ち溢れていたからである。しかもその愛は、単なるヒューマニズムの愛ではない。アガペーの愛である。そしてアガペーの愛とは「相手のために、しかも自らに敵対し、不利益を与える相手のためにさえ、あえて自己犠牲を甘受して、その相手の祝福のために、献げ、仕えて行く、何一つ見返りを期待しない心と生き様」である。これこそ十字架より滴り落ちたキリストの愛であった。




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