私は平和にこだわりつづける


日本自由メソヂスト教団布施源氏ヶ丘教会牧師
合田悟



 今、「キリスト者としての使命はなに」と問われるなら、「それは平和です」と即座に答えるでしょう。今だけでなく永遠の使命と言えます。この平和への思いと行動は、イエスを信じる者として、そして教会として当然の今日的在り方だと思っています。
 毎年3月になると、B-29による大阪大空襲のことを思い出します。敗戦間近な1945年3月13日深夜から14日にかけてのことです。小学6年生、12才の時のことです。B-29から投下される焼夷弾は、瞬く間に周囲を火の海にしました。めりめりと渦巻く炎がどんどん近づいてくる。上空からは、これでもか、これでもかと言わんばかりに波状的な焼夷弾が火の雨として降ってくる。火の海のなか、その炎が四方から徐々に自分の方に迫ってくる。「ああ怖い、もう駄目だ」、「早くこの恐ろしい時が終わってほしい」。恐怖!ほんとうに「怖い!」と思いました。生涯の中で、あの時の恐怖は深く記憶に刻まれています。この恐怖はなんなのか?どうすればこの恐怖から逃れることができるのか。その空襲の真っ最中、必死に考えました。この恐怖は防ぎきれない大災ではない。原因は人間と人間の争いから来ているものである。戦争をなくせばよいのだ。人間の努力でこの恐怖はなくすことができるのだ。私の小さな胸に平和への思いがここから芽生えたといえるでしょう。
 いま世界で、多くの人々や子どもたちが同じような恐怖に直面しています。傷つき、命を奪われ、家を失い、家族を失っています。かつて私が経験した恐怖よりももっと深刻な悲劇が彼らを襲っています。
 そして日本の状況は、最も平和が脅かされているときではないでしょうか。平和憲法が根底から覆されようとしています。自衛隊は軍隊として海外派兵され、憲法9条の平和条項「戦争放棄」は有名無実になり完全に崩れています。アジア諸国から戦争賛美の象徴である靖国神社参拝に対して厳しい抗議がなされているのに、あえてそれを強行する首相に憤りを感じます。国家が誤った道を歩もうとするとき、それに警鐘を鳴らし、正常な道へ戻すことは私たちの使命であり、信仰の課題であります。
 教会はこのような政治的な運動をするところではない。そのような教会を「社会派」と呼んで非難する人々がいるのは悲しいことです。政治的というならば、今の時代、もはや戦後ではなく「戦前である」という、切迫したときに、教会がそれに発言も行動もしないで現状を座視し、黙っているとするならば、この右傾化を推進する体制側に加担していることになります。その事こそ最も政治的であるといえるでしょう。
 「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら・・・・・・。しかし今は、それがお前には見えない。」(ルカによる福音書19:42)





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