「小さな命が失われないよう」
内藤 新吾 
日本福音ルーテル教会牧師、宗教者核燃裁判原告共同代表 
 私の実の両親はそれぞれ早くに亡くなりました。私が3歳の時に母、8歳で父の順でした。その間、父は再婚したのですが継母はひどい人でした。私には年の離れた兄姉が四人あり、兄姉は中高生ながら家を出て父名義のアパートで共同生活をしました。幼な過ぎて残された私は継母から虐待を受けました。本当に辛い幼少でした。父は会計事務所を開いていましたが、仕事が忙しく毎日夜遅くの帰りでした。もう60年近くも前ですから仕方のないことでした。やがて父はガンになり1年近く入院のあと亡くなりました。小学2年の夏でした。その秋、私は学校の帰りに家出をしました。親戚でもない知り合いのところに、「もう家には帰りたくない、おじさんおばさんの家の子にしてくれ」と頼みに行ったのです。その方は「それはできない」と言いましたが、我が家の事情をよく知っていたので、東京の大学に行っていた私の長兄を密かに呼び戻し(兵庫県に)、急いで養子先を探させました。それで迎えられたのが今の実家です。子どものいない当時40代半ばのクリスチャンの夫妻でした。兄に連れられ行ったその日から、そのままそこに暮らしました。親権について家庭裁判所でしばらく継母と新しい父母ともめたそうですが、「金は要らんから、この子は我が家に迎える」と父が怒ると、「それなら」と話が片付いたということをあとで母から聞きました。その父も私が中学2年の時に亡くなりましたが、母は働きに出て育ててくれました。私立の中学と続く高校も出させてくれました。今年10月、母の白寿99歳の祝いをできたことはささやかな感謝でした。
 私が牧師になる道を選んだ時、母はとても喜んでくれました。そして、私が牧師になったあと、原発の被曝労働を繰り返された方と出会ってから反原発の活動を始めたことも、また途中、任地近くで、虐待を受けている子どもたちのための児童養護施設の立ち上げに向けて支援活動をしている時も、一緒にそのことを大事なこととして覚えてくれました。ほんとにありがたい父母を与えてくださったと、神に感謝しています。私には、マリアとヨセフのようにも重なって思えます。
 新約聖書には、イエスの誕生の次第は、福音書で最初に記されたマルコや最後のヨハネにも出てこず、マタイとルカにしか出てきませんが、これはイエスの公生涯と十字架の死と復活に比べれば、そんなに大きな意味は持たないからかもしれません。また、実際にどのような状況であったか、幾つか伝承があったにせよ確かなものとは言えないでしょうから、これを特別視することもよくないと考えます。でも私はこの二つの書に記されている物語が好きです。また、創作と済ませるにはあまりによくできていて感心します。これはイエスの誕生の次第を多くの人に誇ろうとして書くなら、むしろ相応しくない話であり、ここに記されているのは、その父母役として選ばれている者の苦難の道です。
 まず、マリアですが、ルカに記されていることでは、彼女は天使からのお告げに対し、戸惑いを覚えつつも運命を受け入れます。何という自己を神のために明け渡すことのできる素朴さでしょうか。さらには、婚約者への弁明は神に委ねて、同じような使命にあると聞いた親類エリサベトの元へ決断して旅をし(片道約120km!)、そこに三か月ほども滞在するのです。何という神への信頼でしょうか。その間に、やがて彼女も子を宿しているようだと、ヨセフとおそらくはその親族のもとにも伝わります。そうしてヨセフが悩んだことがマタイに記されています。マタイとルカ、それぞれ互いの存在を知らずにまとめられたと推測される書に、こうした繋がりを見ることは興味深いです。そして、ここで原文をよく読めば、これはとても当時の教会でも現代の教会でも、組織の維持や拡張というものを優先しようとする権威主義的な考え方からは、およそ書かれない文章が記されていることに、真剣に読めば気づかされるはずだと、私は思っている文章があります。それはマタイ1章19節です。
 最初の文節ですが、口語訳も新共同訳も「夫ヨセフは正しい人であったので」と訳しています。でも何か違和感を覚えます。この最初の文節は次の「マリアのことを表ざたにするのを望まず」にかかるものです。「正しい人であったので」「縁を切ろうと決心した」ではないのです。また、「正しい人であったので」「マリアのことを表ざたにするのを望まず」でも、何か冷たいです。「正しい」と殆ど訳される「ディカイオス」は、もちろん「正しい」の意味もありますが、「やさしい」の意味もあります(バウアーのギリシャ語辞書)。私は90年代から「やさしい」を取ります(前いたルーテル東海教区の発行物にもそのように紹介)。ケセン語の山浦玄嗣訳が「やさしい」としたのも(『人の子、イエス』2009年)嬉しかったです。最近、田川健三訳が「夫であるヨセフは義人であって」としていたことを知り、聖書の「義人」にはその意味も含まれているので納得です。つまりヨセフは、周囲から「あいつはマリアを捨てて何とひどい奴だ」と思われてもいいから、マリアと生まれてくる子の命を守ろうとしたということです(石打ちにされないように)。正しさよりもやさしさが尊いのです。これが神の義とするところです。
 現代、幼な子たちの命が、あまりにも非道に、またあまりにも多く、権力者たちにより奪われています。どんな理由付けも、ゆるされません。また、これに黙っていることも、何の義もありません。小さな命が失われることを何としても止める、そのために全力を尽くす、そのことが、昔も今も私たちに神の求められていることです。
                 (ないとう しんご)