「戦後80年談話」の見送りを巡って
児玉智継
日本福音同盟社会委員会委員長 
日本福音キリスト教会(JECA)布佐キリスト教牧師 
 この巻頭言の原稿を執筆し始めたとき、「石破茂首相が戦後80年談話の発表を見送る意向を固めた」というニュースが飛び込んできた。その代わりに、有識者会議を設けて戦争に至った経緯を検証し、政府の意思表明となる閣議決定を伴わず、首相の個人的な見解との位置付けのメッセージを出す、と報じられた。
 戦後50年の節目に、当時の村山富市首相は、「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)を発表した。村山談話では、「未来に誤ち無からしめんとするが」ために、「疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め」つつ、「痛切な反省の意」と「心からのお詫び」を表明した。その後、60年(2005年)の小泉談話、70年(2015年)の安倍談話の3度発出されてきた。
 戦後80年を迎えて、戦争を経験した人々が地上を去り、過去の戦争の記憶が失われつつある。ドイツのヴァイツゼッカー大統領は、「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」と言った。歴史を学ぶことは現在を理解することに他ならない。
 戦後、日本国憲法が制定された。それは、まさし<悔い改めの実であると言えるだろう。新約学者の荒井献は、「戦後日本は憲法九条をもって剣をさやに納め、これに封印したはずである」と述べている。
 日本国憲法が独特で、他に類を見ない平和主義であると言われてきたのは、その一項以上に二項の規定であろう。戦力を保持しない、それから交戦権を認めないということは、素直に読めば、これはおよそ正義の戦争のようなものも含めて一切の戦争を禁止しているということである。二度と政府に戦争はさせまいという意志が、日本国憲法の立憲意志であり、憲法解釈の基本であると言えよう。
 戦後80年という節目の年を迎えた。しかし、世界を見渡せば、今なお悲惨な戦争や紛争が続いている。世界に衝撃を与えたロシア・ウクライナ戦争とイスラエル・パレスチナ戦争は停戦に向けた協議が進められているが、既に多くの犠牲者と甚大な被害が出ている。
 日本でも集団的自衛権行使容認に関する閣議決定、安全保障関連法案の強行採決、共謀罪法の成立、安保関連三文書の改訂、防衛費の増額など、日本のあり方を覆す動きが加速している。「戦後」とは言っても、「戦前」に転換(後退)しようとするメカニズムが次第に働きはじめ、「戦争を志向する時代」の様相を呈しているようにも見受けられる。
 このような世界情勢の中で、戦後80年談話を見送るということは、平和主義に立脚した憲法を持つ国でありながら、平和構築に消極的だという誤ったメッセージを送ることにならないだろうか。今こそ、憲法九条に基づく平和のメッセージを送るべきではないだろうか。
 今年、キリスト教界からも戦後80年に関する声明などが発表されるに違いない。あるいは、見送られるだろうか。いずれにしても、この時代に、我々はキリスト者として、どのようなメッセージを送るべきだろうか。
                      (こだまともつぐ)