ラマで声が聞こえた
芳賀繁浩 
日本キリスト教会福島伝道所牧師 

「ラマで声が聞こえた。/激しく泣き、嘆く声が。/ラケルはその子らのゆえに泣き/慰められることを拒んだ。/子らがもういないのだから。」(マタイによる福音書218節:聖書協会共同訳)

■激しく泣き、嘆く声

 マタイによるキリスト誕生の知らせは、天使の賛美ではなく、子を殺された親の叫びと共に伝えられます。クリスマスは私たちがそうであってほしいと願うような、のどかでおだやかな出来事ではありません。むしろそれは、私たちの幻想に冷や水を浴びせるもの、人間がいかなるものか、世界がどのようなところかを露わにするものなのです。

■ヘロデの世に

ラマの叫びが暴露するのは、私たちの生きる世界がヘロデの世であること、そしてそこに生きる私たちもまた多かれ少なかれ一人のヘロデとして生きているということです。

ヘロデは、ダビデの血統ではありません。本来は王たり得ないにも関わらず、軍人としての才覚によって頭角を現わし、権謀術数によってローマ帝国の後ろ盾を得てユダヤの支配者となります。貿易振興と土木建築事業とによって経済を発展させ民心を掌握しますが、権力を握り続けるためには手段を選ばず、最後は妻や子まで手にかけることになります。飽くことなく力と支配と栄光を求めてついには何も信じることができなくなり、誰をも愛さず誰にも愛されず、自分が死んでも誰も悲しむ者はいないと嘆かざるを得なかったヘロデの姿は、人間の罪と悲惨とを象徴しています。

■人々も皆、同様

それはヘロデだけの問題でしょうか。マタイは、王の誕生を知らされて「不安を抱いた」のは「エルサレムの人々も皆、同様」(23)と記します。ヘロデの威光にあやかり、権力のおこぼれにあずかっている者たち、ヘロデの支配から権益を得ている者たちは、まことの王の誕生、真実の支配の到来にむしろ不安を抱くというのです。

祭司長や律法学者も同罪です。権力と結んで地位と利益を得ている宗教指導者はもちろん、学問的な中立性を標榜し、「正しい」聖書解釈をしながらベツレヘムに赴くこともせず、結果的に嬰児虐殺に手を貸す学者の愚かさは人ごとではありません。

■エジプトへ逃げ

妻や子を殺すことを躊躇しないヘロデが、寒村ベツレヘムと周辺の名もない子どもたちの命を一顧だにしなかったのは当然です。将来の危険を未然に防ぐ、未来のテロの芽を摘むと言われれば、兵士たちは顔色一つ変えずに子どもたちの命を奪ったでしょう。これでヘロデ王朝は安泰だ、自分たちはユダヤの平和を守ったのだと自画自賛したかもしれません。

救い主は逃亡します。天使は救い主を守りません。神様は天の軍勢を送って敵を撃退なさいません。天の父はそのひとり子から力と栄光を奪うのです。それが神が人となったということの意味です。キリストは力ではなく弱さを、誉れではなく恥を選ばれます。

■殺される側に立つ

キリストはいつも、脅かされる側、踏みつけられる側、追いやられる側、そして殺される側におられました。そして今もなおキリストは、力なく、弱く、貧しく、殺される側におられます。そして、子を殺された親の叫びを、それをただ見ていることしかできない者の嘆きを、神はどこにいるのかと問う者の声を聞いておられます。

そして、これほどまでの人間の醜悪さと世界の悲惨さを目にしながら、しかしにもかかわらず、マタイは、この人の罪を負うためにこそキリストは来られたこと、ひとたび確かにこの世界に来られたお方は、同じように確かに今ひとたびこの世界に来られ、すべてを裁き、すべてを救い、すべてを完成してくださることを伝えるのです。

マタイが引用したエレミヤ書3115節の「ラケルの嘆き」はこう続きます。「主はこう言われる。/あなたの泣く声を/目の涙を抑えなさい。/あなたの労苦には報いがあるからだ――主の仰せ。/彼らは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある――主の仰せ。」
                     (はが しげひろ)