「非戦の道を歩む勇気」
弓矢 健児
日本キリスト改革派教会 大会宣教と社会問題に関する委員会委員長 
 「役人たちは王に言った。『どうか、この男を死刑にしてください。あのようなことを言いふらして、この都に残った兵士と民衆の士気を挫いています。この民のために平和を願わず、むしろ災いを望んでいるのです。』」(エレミヤ書38章4節)
 紀元前6世紀、バビロン帝国が強大な軍事力を背景に周辺諸国を支配し、南ユダ王国に手を伸ばしてきた時、預言者エレミヤは、バビロンの軍事的脅威を前に、どうすることが神の御心であるのかを為政者と国民に語りました。エレミヤは、主の言葉として、カルデア軍(バビロン軍)にエルサレムが占領されること、それゆえカルデア軍が攻めて来ても戦うのではなく、投降するよう語りました。投降すれば命だけは助かって生き残ることができると語りました。この時エレミヤは、バビロンの軍事的脅威と侵略を前に、戦争の道ではなく非戦の道を語ったのです。
 しかし、エレミヤの預言にユダの国民も為政者も激しく反発しました。役人たちは、エレミヤの預言は兵士や民衆の士気を挫くものであり、自分たちの国に災いを望んでいる、だから、エレミヤを死刑にすべきである、と主張したのです。確かに、ユダの国が一致団結してバビロンと戦っている中で、エレミヤはエルサレムの滅亡と非戦の言葉を語ったのですから、為政者や愛国主義者たちの目から見るならば、エレミヤは非国民、バビロンの手先そのものだと感じられたことでしょう。その結果、エレミヤは逮捕され、監視の庭にある水溜の中に放り込まれてしまいます。
 社会全体が戦争へと向かっている中で、エレミヤのように非戦を語ることは非常に難しいことです。それこそ命がけです。それは日本の国の歴史を見た時も、よく分かります。先の戦争において、戦争に反対した少数の人々は、軍部や特高警察に目をつけられ、逮捕され、拷問を受け、多くの人が獄の中で命を落としました。
 それならば、教会はどうだったのでしょうか。教会はあの時、エレミヤのように非戦を語り、迫害を受けたのでしょうか。残念ながら、日本の多くの教会は非戦の道を歩むことが出来ませんでした。しかし、エレミヤの預言した非戦の道、平和への道を完全に歩んでくださったお方がいます。それがイエス・キリストです。イエス・キリストは、力を捨て、剣を捨て、ご自分から武装解除し、非戦を生きてくださいました。最後は、十字架によって自らを犠牲にしてくださったのです。そのことを通して、イエスは、真の和解と平和をこの世にもたらしてくださいました。  
 新しい戦争の時代のただ中にある私たちは、今こそ、エレミヤの語る非戦の道を、主イエスが歩まれた平和への道を、勇気を出して歩むよう召されています。
                    (ゆみや けんじ)