「用いられるために」
 日本基督教団 総幹事  網中彰子 
  「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/ 野ばらの花を一面に咲かせよ。」(イザヤ書35章1節)
 乾ききった大地が喜び躍り、花を咲かせる。それは神さまの愛の力による潤いなくして実現できません。愛の欠如。それがすべての苦しみ、痛み、悲しみを増してしまいます。
 9月11日が近づくと思い出すのは、2000年、ミレニアムイヤーをお祝いし、願わくは全世界が平和であるようにと恐らく誰もがいっときでも願い祈ったであろうということです。
 私自身そう祈りました。けれども2000年9月11日に全米同時多発テロが起こり、いのちは失われました。その事件の背景に経済、教育等様々な理由があります。それでも相変わらず人は神を自分の都合の良いように利用する愚かさがあることも知らされました。
聖書に記載されていることは、人が自分の気分で解釈するものではない。正しく御言葉を宣べ伝えるものになりたいと、崩れ行くビルを見て「大変だ。伝道に行かなければ」と思ったのでした。それから学び、伝道師・牧師へと歩みだしました。
 「破壊と創造」と言われる中で、日本のキリスト教会の状況は困難が目立ちます。破壊に進むようでいて神さまの創造は続いています。自分にばかり集めたがる罪あるものとして、それをこそ神さまに破壊して、滅ぼしていただかなくては平和への道のりを歩むことは難しいのだと考えます。信仰は神さまの領域ですから、人が説得して信じてもらうことはありません。とても小さな人数で礼拝を捧げている教会で「一人の受洗者が与えられた」という報告を見て、とても嬉しくなりました。希望はあります。
 本当は誰もが平和を願っている。それを実現したいと思っている。その一方でそれを阻む何かはどこか遠くの恐ろしい世界にあるのではなく、私たちの中にもあるのだと自覚させられます。自虐的になるんではなく、自分自身丸ごと神さまにお委ねして、神さまのお用いになりたいように使っていただく。それが平和の道具としての姿となると信じます。
 冒頭のイザヤ書はこうも続きます。
 「弱った手に力を込め/よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。』」(同35章3、4節)
 多様な関わり方、働きをするお互いに敬意を表し、祈りつつそれぞれの仕方で神さまに大いに用いていただきましょう。
                     (あみなか しょうこ)