世の命のために
 国際基督教大学協会牧師  北中晶子
 5月下旬から6月にかけて、アジア各国/地域の大学でキャンパス・ミニストリーに従事する人の集まりがあり、フィリピン・ミンダナオ島に出かけました。「キャンパス・ミニストリー」は訳しづらい言葉ですが、それは何か、ということがまさにこの集まりの主題でした。
 ミニストリーは政治から宗教にまたがる広い意味合いを持つ言葉です。教会であれば、維持運営のための種々の働きから、奉仕・牧会に至るまでの個別の関わりも含みます。高等教育の現場においてそれは何を意味するのか、という再定義の作業は、従来、当然のように繰り返されてきた「宣教伝道」の呼びかけから視野を広げ、学生、教職員を含む全ての構成員から成る学問共同体において、キリスト者として求められていることは何か、という、実践的かつ実存的な振り返りを要求されるものでした。
「善きサマリヤ人のたとえ」が繰り返し、用いられました。日々の務め、清めの儀式(とそれにかかる時間)、巧妙な罠である危険性、集団的嫌悪感…などを全て考慮に入れた上で、目の前に現れた瀕死の怪我人に駆け寄るのか、駆け寄らないのか。「キリスト者として求められていることは何か」の問いかけは、ただ一人神の前に、私の答えは何かと問うていました。
 将来への不安、親との関係、経済的困窮、心身の健康…日々学生と接していて遭遇する事態は多岐にわたります。同時に、学生たちは授業を含む生活全体を通して、様々のことを学び、自ら生きる道を考え、選ぼうとしていることがわかります。政治、生活倫理、信仰、職業、性とジェンダー…少なくとも表面上は、瀕死の怪我人という事態に日常的に遭遇するわけではありません。けれども、若く柔らかな心と向き合う時、「命」を扱っているのだと肝に銘じます。誰のため、何のためにここにいるのかという原点を忘れては、祭司・レビ人・果ては宿屋の主人になることは、あまりに簡単です。
 「キリスト教は、あまりに長い間、『信仰』に強調点を置きすぎた」と、先の会で講演者の一人は言いました。他者との関わり、生き方の選択、憐れみの心…そこにこそイエスの招きがあったのではなかったか—。「世の命のために」主はご自分をお与えになったのだと聖書は語ります。排除と抑圧の先にある殺し合いではなく、共に生きるために、主の教えて下さった道は何かと考えます。
 わかったように生きるのでなく、考え続け、問い続ける道を選びたいと思うのです。
                     (きたなか しょうこ)