「天皇制の問題をまず叩かなければ」 |
日本同盟基督教団子母口キリスト教会牧師 小岩井信 |
「天皇制の問題をまず叩かなければ日本の伝道はできません!」とは(故)趙(チョウ)壽(ス)玉(オク)伝道師(神社参拝強制に抵抗して1940年から約5年間投獄された)の言葉です。今日も日本でまともに伝道するなら必ずどこかで国家や天皇制と、またそれらに大きく影響された人々の精神・言動と衝突することになるでしょう。「イエスだけが主、絶対主権者・支配者だ。天皇も国家も主ではない。」と教会の内外で人々に告げ知らせ、証言することになるからです。 大日本帝国憲法下の天皇制と現在の象徴天皇制とは文言の上では変わったものの、天皇制を「戴く」国家の本質・原理・価値観つまりその問題は変わっていないと思います。それは、国民は国家(かつてはもろに天皇)のために生き、国家のために戦争し、死ねば靖国神社に祀られ、英霊として(死んでもなお)国家に奉仕することが最高の人生だというものです。それは私たちにとっては「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても死ぬにしても、私たちは主のものです。」(ローマ14:8)と啓示された神のご意思に全く反する原理価値観です。神のかたちとして創造された人の身体、魂を国家の欲望意思のままに支配し、キリストの支配は言わずもがな、国家以外の他の支配を認めず、自らを絶対、神とする国家(とそれと一体となっている天皇制)はまさに偶像です。 そんな天皇制国家が押し進めたのが植民地政策、侵略戦争でした。日本の教会は1912年には国家の呼びかけに応えて三教(教派神道、仏教、キリスト教)会同に喜んで参加し、皇運扶翼(天皇の政治・戦争を支えること)を「皆で一緒に」国家に誓い、それを教会の第一原理としました。天皇制国家は教会に「信仰を棄てろ」と迫るのではなく、「同調」「同化」を呼びかけます(昔も今も)。この悪魔の惑わしを見抜けなかった日本の教会はやがて戦時下神社参拝をし、他国の兄弟姉妹たちにもそれを勧め、積極的に戦争協力し、神と人の前に罪を犯しました。 現在、私たち日本の教会が旧天皇制国家に屈従し犯した罪の悔い改めと出直しがどれほど実質を伴っているのか。それは本質的には変わっていない今の象徴天皇制国家(の諸政策、殊に靖国神社問題)とどう対峙しているかによって試されていると思います。喫緊の問題となった「憲法改正」でも、天皇条項(元首化、日の丸・君が代、元号の明記等)は世間では問題にもなっていないようです。そんな中で「天皇制の問題をまず叩く」ならこちらも叩き返されるでしょう。その困難を耐え忍び、主イエスの主権と御支配を真実に宣べ伝える努めに励むべく主のお恵みとあわれみを乞い願います。 (こいわいまこと) |