自由への確信と戦い
日本キリスト改革派教会 大会宣教と社会問題に関する委員会委員長  
弓矢健児
 「そうでなくとも、ご承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」(ダニエル3:18)
 ネブカドネツァル王は自分が建てた像に拝礼させることによって、バビロン帝国と王に対する絶対的忠誠を国民に要求しました。それによって、王は人々の行動だけでなく、心をも支配しようとしたのです。ここから分かることは、思想・良心・信教の自由は、決して心の中だけの問題ではなく、私たちのこの世での生き方と深く結びついているということです。ですから、外面的な自由や行動が規制されるならば、実は内心の自由をも侵害を受けることになるのです。この時、もしシャドラク、メシャク、アベド・ネゴの3人が、王の命令は外面的な儀礼の要求だと考えて、金の像にひれ伏したなら、王は彼らが心の中で何を信じていようと何の咎めもしなかったでしょう。けれども、3人はひれ伏さなかった。なぜなのか。それは、もし形だけとはいえ、彼らが像にひれ伏すならば、その時、彼等の心は真の神を畏れる以上に、王の権力への恐れに支配されることになるからです。外面の自由を規制することは、内心の自由を規制することに繋がるのです。
 私たちの思想・良心の自由、信教の自由は、神の像に創造されている人間に対して、神から与えられている賜物です。そして、神が与えてくださった自由には、内面と外面の区別はありません。神が与えてくださった自由は、私たちの心を神以外のものの支配から解放する自由であり、それは、この世界の中で、私たちが神の栄光を現し、主イエスに従って、神と隣人を愛し、他者との和解のために、平和を実現するために生きる自由なのです。この世のいかなる権威・権力であっても、私たちからこの自由を奪い去ることはできません。神から与えられた自由への確信こそが、どんなに困難な状況の中にあっても、私たちに勇気と希望と力を与えてくれるのです。
 香港やミャンマーをはじめ世界的にも、また安倍・菅政権の下での日本においても全体主義的な力が強くなり、基本的人権や自由が脅かされている時代です。けれども、そのような時代だからこそ、私たちは真の王である主キリストの御手の守りを確信し、主から与えられた自由を守るために共に祈り、共に戦う者でありたいと願います。
                   (ゆみや けんじ)