「あなたを忘れない」
北中 晶子  国際基督教大学協会牧師 
 何が起こっているのでしょうか。
 「集会の自由」は、「信教の自由」「言論の自由」などと並んで、人類が長い時間をかけて戦いながらようやく勝ち取ってきた権利であると教わりました。けれども今、それらの戦いや理念とは遠く離れたところで、まったく別の理由で、「集会」そのものが消え、「自由」はとても見えにくく、とらえ難くなっているような気がします。
 見えないウィルスによって、多くの命が失われ、社会が変わり、生活が変わり、世界が変わろうとしています。 誰も経験のない、初めてだらけの状況で、明らかになっていくのは私たちの「宿題」であるようです。貧富の格差、武力への依存、冷たい無関心、差別や偏見は、私たちの世界から一度も消えたことはありませんでした。利己的な判断、 薄っぺらな言葉、恐ろしい孤独は、 いつの日もここにありました。危機に直面して、今、これらの宿題を並べ、再び思い起こします。 私たちは、人間らしい生き方がしたかった、人間らしい世界に生きたかったのでした。ずっとそれについて考えてきたのに、 今も答えを求め、人間らしさとは何かについて必死に考えているのです。
 何かを経由してではなく、じかに手で触れ、耳で聴き、肌で感じること、 「顔と顔とを合わせて」見ること。体は、他者と私とを決定的に分けるものでありながら、この体を通して初めて、他者の命に思い至り、その痛みを想像し始めること。カミュの小説の主人公は、ペストなるものは決して消えたり死滅したりすることはなく、何年も息を潜め、いつかまた、「幸せな街」に放たれるのだと述懐します。 それは人類の「破滅と啓蒙のため」である、 と。
 「もとの生活に戻る」だけではだめなのだと多くの人が気づいています。 ずっとそうであったように、私たちは、変わらなくてはいけないのだという声、このトンネルの向こうには、新しい社会のあり方を思い描かなくてはいけないのだという声が開こえてきます。
 何が起こっているのでしょうか。今はまだ、よくわかりません。けれども、世界の人々の状況を伝える色々な大きな数字を眺めつつ、小さな一人ひとりに注がれる神の眼差しを思います。
 「見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける」と主は言われました。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。 母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない」(イザヤ49:15)。…ただそのゆえに、すべての命は無限に尊く、「宿題」は私たちに迫ってきます。
                     (きたなか しょうこ)