憲法に触れる「個」の尊重の精神 ~ 一人一人のいのちを愛しむ
西原 美香子  日本YWCA幹事 
 私たちキリスト者にとっての9条とは何でしょう。
 9条は祈り、この地上に正義と平和、 ゆるしといのちと愛をもたらすための、きわめて具体的な祈りであると私は考えます。 9条の条文に込められた「9条的考え方」は、あらゆる暴力を否定するものです。すべての「死」をもたらすものに対して「NO!」を突きつけ、すべての「いのち」を愛しむものに「YES!」を宣言する。キリスト者にとっての9条は、聖書の教えをきわめて具体的に憲法に記したものだと思うのです。
 9条だけではありません。日本国憲法の理念には、聖書のみ言葉のメッセージが重なります。キリスト者として自らを絶対化せず、少数者の意見、声にならない声に耳を傾けてその尊厳を守り、愛しむこと。憲法のもつ立憲主義の思想に、イエス·キリストの生き方を重ねます。
 すべての人を個人として尊重することが究極的な目的として立憲主義に立ったこの憲法は、第13条に「すべての国民は、個人として尊重される」と記しています。そこには「人は皆同じ」と「人は皆違う」という二つの側面をもつと、法学館法律事務所の伊藤 真(いとう まこと)弁護士は指摘しています。
 「人は皆同じ」とは、人は誰でも生きていく価値があるということ。誰もが一人の人間として大切にされなければならないということ。この思想に立った日本国憲法は、社会のために一人の人を決して犠牲にしてはならないという考えを示しています。 伊藤さんは、次のようなたとえでそれを説明しておられます。
 「10人の凶悪犯が捕まったとして、その中で一人だけ無実のひとがいたとする。でも誰がそうなのかわからないという状況があったときどうするか。憲法はこのような場合、社会のために一人を犠養牲にしてはいけないと考える。10人の内9人の極悪犯を世に出すことになったとしても、寛罪でつかまってしまった一人の犠牲を強いてはいけない。極端なはなし、憲法に立つならば、10人を釈放する。」

 100匹のヒツジをもつ羊飼いが、迷子になった1匹を探し回る聖書の物語を思い起こします。99匹をその場に残しても、羊飼いはたった1匹のために力を尽くします。この聖書の物語と同じように、憲法は一人の人が大勢の社会のために犠牲になってはいけないと考えるのです。「すべての人は、個として尊重される」その精神は憲法に流れる思想なのです。
 個として尊重されることで「人は皆同じ」です。同時に憲法は「人は皆違う」という側面をもちます。誰もが個々に違うことの豊かさを大事にし、かけがえのない個として尊重する。「あなたはあなたであり、この世の中にたった一人しかいないかけがえのない存在である」 ことが、 この憲法に流れる「個」の尊重の精神です。
 キリスト者の視点で9条をもつ平和憲法にアプローチすると、これを守り、活かすことで、平和は実現できると確信し、そこに希望を見出します。
                       (にしはら みかこ)