イエスさまが一番

矢萩 新一  日本聖公会 管区事務所総主事

 「都民ファースト」「アメリカファースト」、自分たちの権利が一番大事、そんな雰囲気が私たちの心を支配しようとしています。自らが代表する地域や国の人々の利益を守るという意味では優れた考え方なのかも知れません。しかし、そこから取り残された人々、異なる考えを持った人々は排除され、犠牲を強いても仕方がないという論理につながる考えでもあります。同じように、核や武力による抑止力が必要なのだという考えは、いつの時代も多数を占めてきたのかも知れません。自分ファースト、自分たちファースト、そんな自己中心の思いは、いつでも人間の心に潜んできました。
 そんな私たちの心に、自らの人生をかけて、本当の幸せについて、人間らしく尊厳をもって生きることについての問いを投げかけられたのがイエスさまではなかったでしょうか。イエスさまの姿は、多くの人にとってはバカらしい生き方、損をする生き方、マイナスな生き方のように映ったかもしれません。
 しかし私たちは、イエスさまの十字架の死と復活という生きざまにあこがれ、不出来ながらも何とかその姿に近づこうともがき、悩み、自己嫌悪に陥ってしまうこともままあります。ついつい自分が理想通りに生きられていないことをわきに置いて、隣人の間違いや快くない言動を強く非難してしまいます。分かってはいるけど解っていない、どこかで自分ファーストな部分が出てきてしまいます。身近で愛すべき家族の間でもそうです。家族の間だからこそそうなのかもしれませんが、価値観を押し付けてしまって後悔することが少なくありません。後悔をすれば、反省して謝罪し、誠実に向き合うことしか、その関係を回復することはできないのではないでしょうか。
 「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(Uコリント5:17)。新しく創造されることは、そんなプロセスを経て得られる喜びであること、しんどいことを乗り越えて得られる新しい世界、それは、イエスさまファースト、神さまファーストという価値観を持つものが得られるお恵みであることをいつも忘れずにいたいと思います。
 自分自身に向ける関心を少し、隣の人、苦手な人、快く思っていない人に向け、イエスさまのこと思い起こしてみるとき、和解や癒しの道へと導かれていくのではないでしょうか。
                                           (やはぎ しんいち)