2019年1月、あるいは4月に現・明仁天皇から次の徳仁天皇への代替わりが想定されている。しかも天皇の死去ではなく、高齢による退位に伴う即位の礼・大嘗祭が行われる。これをどう受け止めるべきかキリスト教界においてまだほとんど議論されていない。
1990年の代替わりの際には、NCC大嘗祭署名運動センターが組織され、NCC加盟の各教派・団体のみならず、カトリックや福音派の諸教派も含めて、つまりこの国のキリスト教界全体として、大嘗祭への批判と憂慮を公けにした。神道儀式である大嘗祭への国費使用や、憲法に抵触する可能性、さらに天皇の政治利用を懸念してのことであった。
そもそも戦前・戦中の絶対主義天皇制による信教の自由の侵害という痛苦な経験したキリスト者たちは、戦後の天皇の「人間宣言」と平和憲法によって神権天皇制の呪縛から解放されたと受け止めて来た。しかし憲法改正への執拗な動きと昭和天皇の戦争責任をめぐって、象徴天皇制が依然として戦前の神権天皇制の影を引きずっていることへの懸念を払拭できないで来た。それはヤスクニ問題への粘り強い取り組みを通して、教派を問わずこの国のキリスト教界の共通の問題意識であった。例をあげれば1979年に元号法制化が施行された際、ほとんどすべての教派の機関誌、各個教会の週報などはそれまでの西暦と元号の併用を廃して、西暦のみを使用するようになった。国家が元号を強制しようとしたとき、キリスト教界は敢然として元号の使用を止めたのだ。きわめてささやかではあるが、キリスト教界の態度表明であった。
しかし昨年8月の天皇の生前退位表明は、新たな問いを含んでいる。現天皇は即位に際し「国民と共に憲法を護り」と宣言し、被災地への見舞いや、海外の激戦地への「慰霊の旅」を繰り返してきた。戦争責任を曖昧にし続ける歴代の政権に対して、これは象徴天皇としての一つの明確な姿勢と言えるのではないか。そもそも生前退位は、神権天皇制への復帰ではなく、天皇が人間的な弱さを負った存在であることを明らかにしたものだ。直ちに改憲勢力から生前退位への猛列な反撥の声が挙がったこととそれは対照的である。
この国のキリスト教界は、象徴天皇制への懸念や批判はして来たものの、現天皇が「慰霊の旅」を続けるなどの仕方で象徴天皇制の在り方を模索して来たことの意味をきちんと受け止めて来なかったのではないか。ある意味では、現天皇から投げかけられたこの問いに対して、私たちキリスト者がどのように応じるかが問われていると言えるだろう。
しかし直ちに留保しなければならないのは、象徴天皇制についての現天皇の理解が、今後もずっと代々の天皇たちに引き継がれるかどうかはなはだ疑わしい。そこにこの問題の困難さがある。つまり天皇の個人的資質に依拠した議論に陥ってはならないのだ。現政権が憲法改正を志向する中で、改めて象徴天皇制をどう理解するかが問われている。
(かいのう のぶお)
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