「地上に平和をもたらすために、わたしが来たと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきた…わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。」(マタイ福音書10:34-35)
平和でないものを平和と思い込み、偽りの平和を楽しむことが私たちには出来ます。誰かの犠牲の上に成り立つ平和は、本当に平和と言えるのか、問われているように思います。
当たり前のように私たちには基盤としている人間関係があります。血縁は古今東西で、社会関係の基盤とされてきました。それ自体には、恐らく何も悪いことはありません。しかし身内を身内とすることに何の尊さがあるのか、私たちは問われているかも知れません。道端に倒れているけが人を見捨てることができず、危険をかえりみずに立ち止まったよきサマリヤ人のように、社会通念の枠を越えて、もう一歩、外へ出るように、期待されているのかも知れません。その時、当たり前の人間関係が、違って見えるかも知れません。
偽りの平和を平和として楽しむことは、難しいことではありません。寡婦、病人、貧しい人、罪人…本当は社会の一部なのに、まるで一部でないかのように扱われていた人々に、主は目を注がれました。それは社会通念に反し、平穏な日常を揺るがすものでした。もう一歩、外へ出て、もう少し、視点を変えて…偽りの平和を手放して、本当の平和を求めることは、慣れ親しんだ平穏を犠牲にすることを意味します。
その意味で平和を求める人は、多くはないかも知れません。見なかったふり、聞かなかったふり、気づかなかったふりをすることは、ほとんどの人が得意です。誰かの窮状に心揺さぶられても、再び心穏やかに過ごすためなら、忘れたふりさえ出来ます。社会の仕組みが…時代の流れが…危険な政治リーダーが…平和を脅かすものが手の届かない大きなものであると自分に言い聞かせ、あきらめてしまうこともできます。
けれども聖書が伝える平和は、いつの時も、一人ひとりの生き方と無関係ではありません。魔法のように降ってくるものではなく、自分のあずかり知らないところで左右されるものでもありません。それは時に、人から人へ、贈り物のように手渡されると言われます。「平和のうちに行きなさい」…「この家に平和があるように」。言葉が言葉だけでなく、空しく響かないためには、どんな人間関係が求められ、どんな生き方が求められているのか、考えずにはいられません。
(きたなか しょうこ)
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