クリスマスメッセージ
「二者択一?」

平良 愛香   平和を実現するキリスト者ネット代表


 クリスマスのメッセージというと、マタイやルカ福音書の始めのほうに出てくるイエスの降誕物語やヨハネ福音書の「初めに光があった」を思い浮かべる。けれど同時に、「イエスはこの世の苦悩を負うために生まれたのだ」ということも感じて、十字架の物語を思い浮かべることもある。イエスの歩んだ道、イエスの語った言葉。それは、この世の価値観を覆す道であり、この世の不条理に「本当にそうだろうか」と光をあてる言葉だったのだと思う。

 ルカ福音書10章38−42節にはベタニア村のマルタとマリアの姉妹の物語が出てくる。イエス一行をもてなし働くマルタと、手伝いもせずイエスの足下で話に聞き入っていたマリア。マルタが怒り出すのは当然。それに対しイエスは言う。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
 この物語は実に様々な解釈がある。当時旅人をもてなすのはとても大切な義務だった。マルタはその義務を果たしただけなのに、どうして叱られないといけないのか?あるいは、どうしてマルタは直接マリアに「手伝え」と言わず、「手伝うようにマリアに言ってください」とイエスに頼んだのか。そもそもイエス自身、どうしてマルタを手伝おうとしないの?みんなで一緒に準備したら、それから仲良く話を聞きながら食事もできるのに・・・。そんなことを感じながらも、今回はイエスの言葉「必要な事はただ一つだけである」に注目してみた。この言葉は、「正しい選択は一つしかない。それは神の言葉を聞くということ」と説明されることが多い。けれど正しい選択って、そんなに単純に導き出せるものだろうか。正解っていつも一つだろうか。
 イエスの裁判の場面。総督ピラトが民衆に尋ねる。「あなた方が釈放して欲しいのはイエスか、それともバラバか」(マタイ 27:21)。人々は「バラバを」と答えたが、本当はどう答えるべきだったのか。「イエスを」と答えるべきだったのか。ある人がこんなことを言った。「民衆はここで、『その二者択一はおかしい!』と言うべきだったのではないか?」
 私たちは二者択一という選択肢が与えられたとき、選択権が自分たちに与えられたと喜んでしまう危険性がある。でも本当は、「その二者択一は正しいのだろうか」と考えなければならない。ときには、その二者択一を拒否しなければならないときもある。
 現在、沖縄は日本政府から、「普天間基地の存続」と「辺野古新基地建設」の選択を押し付けられている。けれど沖縄の人々は気づいた。「その二者択一はおかしい!」。それは権力者側から見れば「わがまま」に見えるかもしれない。しかし、権力側が並べた二者択一はおかしいということに気づいた沖縄の判断は決して間違いではない。
 今年6月12日、フロリダ州オーランドの同性愛者が集まるクラブで銃乱射事件が起き、犯人を含む50名が殺された。最初は同性愛嫌悪の強い人間の犯行かと思われたが、後に、犯人も男性同性愛者だったことが分かった。彼は同性愛を嫌悪する宗教グループの家庭に育った。その中で、父親の教えに従ってその信仰に生きるか、それに抗ってゲイである自分を肯定するかの二者択一を迫られたのだろう。誰かから二者択一を迫られたわけではないのかもしれない。「どちらかを選び取らないといけない」と自分で自分を追い込んだのかもしれない。その結果、同性愛を嫌悪していることを行動に示すことで、親とその宗教に認められようとしたのではないだろうか。自分が射殺されることを覚悟で。
 これは当然キリスト教でも起こりうるし、社会が求める「こうあるべきだ」と、私が望む「こうありたい」の中で苦しむこともある。けれど「どちらも大切」もありうる。
 どちらも押し付けられては困る、という事柄であるにも関わらず、権力者や社会、ときには宗教が、二つを並べて、「どちらかを選べ」と言ってくることがあるかもしれない。逆に、どちらも大切なものであるのに、片方を捨てろと言ってくることもあるかもしれない。そのときに私たちは、「その二者択一はおかしい」と気づき、立ち向かわないといけない。「どちらも受け入れるわけにはいきません」あるいは「両方大切です。どちらも捨てるわけにはいきません」と気づける冷静さ、立ち向かう熱さ、そして勇気が必要。そこに、恐れを取り除く神が共におられる。
 イエスが言った「必要なことはただ一つだけである」というのは、もしかしたら、その選択肢が、社会(やときにはキリスト教)の価値観の中で、「本当にあなた(がた)を生かす大切なものかどうかを見極めなさい」ということだったのかもしれない。そして、「私(たち)を生かすもの」を必死で求めて得た回答に対し、「それを取り上げてはならない」と言うために、イエスはこの世に生まれたのだろう。
                      (たいら あいか)