「平和を実現する漁師としてください」
   小泉 嗣   日本福音ルーテル教会 千葉教会牧師 
 

 「ネット・ワーク」という言葉にはその語源に、網を連想させるものがある。しかしその網は、イエスの弟子たちがテベリアの海で、日々の糧を得るために湖に投げていた網とは異なる。その関係性や、時間、物理的距離によって、点と点を結ぶ糸(線)の太さ、長さはまちまちである。またそこでは、点と点との差異があることによって、お互いに、点の存在である私とあなたの関係を、彼や彼女が知るようになる「ネット・ワーク」によって、私とあなたの言葉を、彼や彼女が目にし、また耳にすることができるのである。
 たとえば「私」がネット・ワークの介在する場で発信するのであれば、彼や彼女も紙面等を通して、「私」の言葉を目にし、耳にすることを前提に語らねばならない。
(軍隊の不所持を謳った憲法を持つ国民が自国のこととして使うこと自体問題があることは敢えて脇に置き)そこでもし「私」が「防衛費」ではなく「軍事費」という言葉を用いるようなことがあるのなら、その「私」は人前で話す資質がないといわざるをえない。
 一方、ネット・ワークにつながっている彼や彼女が、どのような人で、どんなところにいる人なのか理解し、把握しながら語ることもまた困難である。私たちが把握しうる点と点の関係性、時間、物理的距離は、せいぜいカッコをつけた「私」と「あなた」である。その様な意味で、「私」はその先につながっている彼や彼女を想像しながら、それでも「あなた」に語りかけたいし、「私」にはそうすることしかできないのではないかとも思う。
 「平和を実現するキリスト者ネット」もまた「平和」を祈り、求め、つくりだす人々や団体によってつくりあげられたネット・ワークである。私は私とあなたの関係を超えて、つながっているすべての人が、その言葉を連想させる「綱」のもつ本来の機能についてのイメージを共有しているという点で、私は「あなた」の先にある「彼や彼女」を知っている。「ネット」とはまさしく「網」であり。その「網」を用いて「平和」をしっかりと掴み取るというイメージである。
 私たちの「ネット」が「ネット・ワーク」である限り、点と点を結ぶ糸の太さや長さが均一になることはない。しかし私たちは、「ネット」が「網」としての機能を果たすために、ほつれをほどき、細い糸を撚り直し、網を編み続けていかなければならない。彼や彼女を想像し、あなたと出会うことによって・・・。
主よ、平和を実現する漁師としてください。
                     (こいずみ つぐ)