言論の自由・信教の自由を護ろう


 

中尾 猛 東京聖書集会

 

 1947年5月3日に施行された日本国憲法には明治の自由民権、大正デモクラシーの思想が生かされている。憲法に保障される『自由』には・19条思想及び良心の自由・20条信教の自由・21条言論、結社、出版、報道の自由・23条学問の自由等が定められている。ところが特定秘密保護法やその他の法律で、この「自由」を制限しようとしている。
(1) 言論・報道の自由
 戦後初めての報道・放送に圧力が加えられたのは、だいぶ昔のことになるが、NHKラジオ第1放送の「日曜娯楽版」であった。吉田内閣を批判したためであった。残念なことに、この番組は廃止になってしまった。テレビの時代になってから、ニュース報道番組で、いろいろな人達が圧力を加えられてきた。問題の原因、本質、真実、裏面を探り、調査・報道すると、都合の悪い所から圧力がかかる。中には、精神的に嫌なことをされたり、そのため病気になったりして、降板した(番組を降りる)人もいたようである。事実を自由に報道する人の人権が尊重されなくてはならない。新聞などは検閲がないことになっているが、真実の記事がカット(自主規制の強要)されることがあるのではないかと疑う時もある。テレビも新聞も報道を規制されてはならない。
 日本は第二次大戦の敗戦まで報道が統制されていた。その様な時代にならないためには、報道する側も、受信する(テレビを見る、新聞を読む)側も、ともに報道の自由・言論の自由を護っていかなくてはならない。
(2) 信教の自由
使徒たちの時代から始まったのが宣教の自由、信教の自由であり、また異教との闘いであったと思う。ローマ帝国と闘い、キリスト教は公認された。キリストの福音は非暴力によって伝えられた。信教の自由は二千年以上の歴史があるといったもよいと思う。
 日本は過去に朝鮮半島を第二次大戦の敗戦に至るまで、長い間植民地支配してきた。日本の国家神道を韓国の人々に強要してきた。このため韓国では、多くのキリスト教徒が信仰を護るために立ち上がった。日本の当局者は各地でキリスト教徒に残虐な迫害を行った。このような罪を知ったのは50年前だった。このことは日本の歴史教育で正直に教えるべきである。信教の自由を奪ったことを深く反省しなくてはならない。
 日本国内では、戦時中都電が靖国神社前を通ると、車掌の音頭で最敬礼をしなければならなかった。信教の自由には個々人が信じる自由と信じない自由がある。信徒はキリストの信仰を護ることが、信教の自由である。
                   (なかお たけし)