我ならずして我なり
西田幾多郎『善の研究』に次のような一節がある。「実地上真の善とはただひとつあるのみである。すなわち真の自己を知るというに尽きている。」この真の自己に至る道は「我は我ならずして我なり」ということを実践することにある、と思う。「我ならずして」という一句が欠如している「我は我なり」ならば、自己主張ばかりの人間となり、事故を正当化し、自己義認しているに過ぎない人間となってしまう。また「我は我ならず」という所でとどまってしまえば、主体性のない、自己を喪失した他律的人間となる。「我ならずして」とは、自分を一度否定することであり、それは他者と対話することであり、歴史から学ぶことでもある。自分が有限であることを認め、自分を否定することを自虐的という人があるが、人は自分を否定される経験を通して真の自己へと成長し、前進すると思う。
命を守り、善い未来を築く
現在の日本を考えると、「日本は日本」という自己主張ばかりが目立つ。その実例は原発に関することである。最近まで、原発は、安全、安い、クリーン(環境に優しい)、などと宣伝されてきた。しかし東日本大震災で、原発事故を経験し、原発とはどういうものかが明らかになった。利益ばかりでなく、危険性を多分に含んでおり、原発から生じる問題を解決するコツは非常に困難なことであるということが分かった。廃炉するにしても莫大な費用と時間がかかる。しかし、危険であり制御できないこの原発を今、再稼働しようとしている。3・11の東日本大震災などなかったかのような国策推進である。私たちは国策推進にあたって「いのちと暮らしを守る」という言葉や「未来志向」という言葉を耳にする。しかし現状をしっかり認識することなく、いのちを守り、善い未来を築くことが出来るだろうか。
神の方向に
聖書において、自分を否定する「悔い改め」は、古い自分が、神の方向に向きを転換して新しい真の人になるために必須のことである。原発に対する考え方を今までの延長上で考えて行くのでなく、正当化し続けてきたこと、そしてこれから正当化し続けようとすることが、はたして善いことであるのか否か、別の選択肢は何であるかを明確にしなくてはならないと思う。私たちは分岐点に立っている。今までの考え方を否定し、新たな方向へと思考を転換して行かなくてはならないと思う。
(くりた ひであき)
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