《2014年クリスマス・メッセージ》
東方で見た星 

マタイ2章1〜12節
許 伯基  在日大韓基督教会つくば東京教会牧師
1.「東」について
 旧約聖書において「東方」には余り良い意味が与えられていません。禁断の木の実を食べてしまったアダムとエバが追放されたのは「エデンの東」でありました。彼らの息子たちのカインが弟アベルを殺した罪により追放されたのは、「エデンの東」「ノド(さすらい)の地」でありました。さらに神を恐れず天まで達するように「バベルの塔」を作ろうとしたのは、「東方から来た人々」でした(創世記3-11章参照)。まだ例を挙げられますが、要するに「東」とは神から遠ざけられた人々のいる方角を指しているのです。
 ところが新約聖書の冒頭では、救い主イエスの誕生を告げる星は、まず「東方」の学者たちに見出されています。「罪人」「異邦人」とされている人々に、まずクリスマスの星は輝いたのです。「神の都」を誇りとするエルサレムの人々は、だれもその星を見てはいません。この一事の中に、すでにクリスマスの意義が明らかにされているのです。「神の選びの民」に先立って「罪人」「異邦人」を招きたもう神の慈愛は、まさに幼子イエスにおいて明らかになりました。「逆転の恵み」の啓示です。

2.ヘロデ王の不安
 エルサレムの王宮を訪れた東方の「占星術の学者たち」によって「ユダヤ人の王が生まれた」と告げられ、驚きと不安に満たされたのはヘロデ王自身でありました。「ローマ皇帝アウグストに任命された自分以外にユダヤに王はいない」と考えていた彼は、不安に襲われつつ側近に調べさせ、ミカ書5章によって新王の生地はダビデの故郷ベツレヘムと断定し、学者たちに告げるとともに、その新王を殺す奸計を企んだのでした。ヘロデはエルサレムに神殿を建設中であり、イドマヤ人としてのヘロデはようやくユダヤ人の心を把握し始めていた時です。新王生誕の話は自分の地位を危うくする、とんでもない知らせでありました。「見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」とは、不安に怯えるヘロデの奸計の言葉なのです。
 マタイの場合もルカの場合も、幼子イエスの誕生は権力者との対比の形で描かれていることに注目したいと思います。真の権威は王冠や錫杖にあるのではなく、神の創りたもうた生命、特に生まれたばかりの生命にこそあることを、両福音書記者は伝えているのではないでしょうか。

3.幼子イエスを拝む
 他方、東方(当時のぺルシア?)からの占星術の学者たちは、ヘロデの情報に基づいて出かけました。しかし具体的には、彼らが「東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所に止まった」のでした。ベツレヘムのどこに行けばよいのか、戸惑う彼らをしっかり導いてくれた「その星を見て喜びにあふれた」とありますが、この「喜び」の意味を考えてみましょう。まずは来るべき所に導かれたことの喜びでしょう。それは星に導かれなければ決して分からなかった、金殿玉楼の王宮とは全く縁のない貧しい場所でありました(マタイはルカのようにそれが家畜小屋であったとは告げてはおりませんが)。それから拝むべきものは権力の座に君臨する王ではなく、生まれたばかりの生命そのものである「幼子」であると示されたことが、さらなる「喜び」であったことでしょう。
 それに加えての「喜び」は、「占星術の学者」という当時の中近東社会での最高の知識人であった彼らが、「生命」に仕えることが自らの課題であると示されたことでした。そもそも学問とか知識は、何のためにあるのか。暴虐な権力に仕えるためなのか、それとも「生命」の尊厳に仕えるためなのか、改めて知性の方向性を示されたことが、この「学者たち」にとって最大の喜びであったのではないでしょうか。「彼らはひれ伏して幼子を拝み」、それぞれの贈り物を献げたのです。
 私の若い頃、先輩の鈴木正久牧師との語らいの中で、大学の教養課程で教えている私に問われました。「君、教養って何だ」と。答えに窮する私に言われました。「他者に関わる感性があるかどうかの問題だ」と。今もその言葉が胸に刻まれています。知性とは、他者に関わる感性を伴ってこそ、真の知性であり教養であるのではないでしょうか。
 生まれたばかりの「いと小さき生命」、その尊厳に対する感性をもって、占星術の学者たちは幼子イエスにひれ伏したのではないでしょうか。知性の本来のあり方を示されて、彼らは「喜びにあふれた」のではないでしょうか。これもまた、クリスマスの星が示してくれる恵みでありましょう。

4.「別の道を通って」
 幼子イエスを拝し贈り物を献げた後、占星術の学者たちに「ヘロデのところへ帰るな」と「夢でお告げがあった」のです。非人間的な権力に仕えるのではなく、「生命」に仕えることを本来的な知識として示された彼らは、当然の事ながら権力者ヘロデの指示に抗し、これと訣別して「別の道を通って」帰国することを選択しました。「夢」は、聖書においては神の啓示の手段とされています。「生命」そのものである「幼子」に仕える道へと導かれた彼らにとって、「夢のお告げ」は新しい道へ歩み出すようにとの促しでありました。彼らにとって、それは勇気ある、しかも自由な歩みへの決断となったのです。
 今日、貧困と差別のグローバルな深まりの中で、私たちはクリスマスの星の示す所に謙虚に導かれ、その道を歩み続けなければなりません。「いと小さき生命」に仕える道こそ、主イエスに従う道であり、自然をも含めた私たちが共に生きる道にほかなりません。平和を求めて共に生きることは、決して現状維持ではありません。平和と共生を妨げている資本主義の権力とも、暴力的に新秩序を求める権力とも、私たちは訣別しなければなりません。たとえ目に見える成果が与えられなくとも、「御国を来らせたまえ」と祈りつつ、「別の道」を歩み続けようではありませんか。 
              (せきた ひろお)