御心が行われますように、天におけるように地の上にも


キリスト者平和ネット事務局副代表
村瀬俊夫(むらせ としお)



 昨年3月の東日本大震災に連動して発生した甚大な福島第一原発事故は、67年前の敗戦の出来事に匹敵するものとして、「第二の敗戦」と呼ばれるほど重大かつ深刻な出来事であったと言わなければなりません。67年前の敗戦は、それまで侵略戦争をほしいままにして国策を誤った大日本帝国に当然のように下された神の審判であったと、著者はキリスト教信仰の視点から受けとめています。そうすると、昨年3月の悲惨な出来事も、日本が戦後の復興を果たして経済大国となりG8の一国となれたのはひとえに9条を有する「平和憲法」のおかげであるのに、そのことを忘れ、日米安保条約との絡みで米国が強要する新自由主義や集団的自衛権の行使を可能とするように憲法改正(実は改悪!)を推進しようとする前自公政権と、それを阻止できずにいる現民主党政権の政策への厳しい警告であると、受けとめざるを得ないのです。
 67年前の敗戦による滅亡のどん底から再生しようとする日本に「日本国憲法」が与えられたのは、信仰的に表現すれば、神の大きな憐れみと恵みによることでした。しかし、その歴史的意味をどれだけ深く私たちが理解しているかが改めて問われます。侵略戦争への深刻で真摯な反省がどれだけなされているでしょうか。それがきちんとなされていなければ、昨年の甚大な原発事故への深刻で真摯な反省がもっと十分になされていたはずなのにと、思わされてならないからです。

 ひるがえって、クリスマスの出来事との関連で、預言者たちが活躍した旧約聖書の時代に目を転じましょう。預言者のリストの中に名を留めている記述預言者が活躍したのは、王国が北のイスラエルと南のユダに分裂していた紀元前8世紀以降であり、北王国が前722年にアッシリア帝国に滅ぼされ、南王国も前587年に新バビロニア帝国に滅ぼされるという、まさに激動と波乱の時代であったのです。最初に滅びた北王国で預言したのがアモスとホセアですが、彼らは王国の現状を厳しく糾弾しています。アモスは前760年前後、ヤロブアム二世下で北イスラエルが経済的繁栄を享受していた時期、繁栄の影で貧しい者が抑圧され、弱者の権利が蹂躙される事態を座視できず、その罪過を弾劾し、ついに王国の破滅まで宣告します。(→アモス3:2;8:3)。この厳しい批判の預言はアモスに次ぐホセアにも受け継がれ、預言が成就して前722年に北王国は滅亡したのです。
 かろうじて存続した南王国も、アッシリア(前7世紀末に衰亡)と[代わって台頭した]新バビロニアの脅威にさらされ、ついに前598年と587年の二度にわたり首都エルサレムが新バビロニアの大軍に包囲されました。その間、アモスやホセアのようにユダで活躍した預言者に、著名なイザヤやエレミヤがいます。前598年には降伏して首都の壊滅は免れました。しかし前587年の時は、徹底抗戦して首都は壊滅状態となり神殿も焼き払われ、ついに南王国ユダ(ダビデ王朝)も滅亡しました。そして民の上層部のほとんどがバビロンに移住させられ、以後50年(あるいは60年)余りも異国での生活を強いられる「バビロン捕囚」の時期を過ごすこととなったのです。
 預言者たちが南北両王国の破滅を預言し、それが実現してしまったのですが、そのために一番被害を蒙ったのは、護られるべき対象として預言者たちが挙げていた貧しい者や社会的弱者です。それでは大きな矛盾をはらむことになるので、アモスは別としてホセア以後の預言者たちは、」現在に向けた「審判預言」と共に将来に向けた「救済預言」を語ります。それがクリスマスと深く結びつく「メシア預言」に他なりません。代表的な箇所は、ホセア2:20−25;イザヤ9:5−6;11:1−10;エレミヤ31:1−34;33:6−9です(→イザヤ2:2−4=ミカ4:1−3;エゼキエル34章)。それはメシアによる正義と公正の支配する「平和」の回復を指し示しています。
 このような救済預言の表明を含む預言書が編纂された背景に、次のようなことが考えられます。王国の滅亡とバビロン捕囚という悲惨な出来事を経験する最中、捕囚民のうちの自覚的少数者が、過去を振り返って深刻かつ真摯に悔い改め、「もはや戦うことを学ばない」真実の平和の実現こそ神の御心である、と見究めるように導かれたのではないでしょうか。そのような彼らの願いが日の目を見るようになったのが、イエス・キリストの到来による「クリスマスの出来事」であったのです。

 福音書によって知らされるイエスは、ローマの植民地下にあって苦しむユダヤ民衆のために「神の国(支配)」を告知し、病める多くの人々を癒し、誰をも分け隔てせず「罪人」として蔑まれていた人々を招いて食卓を共にしておられます。律法遵守の度合いで測られる業績が人間の価値基準となるのではなく、誰でも神によって等しく生かされ存在させられているのだと、イエスはその言行をもって明かしし訴えておられます。それを快く思わなかったのが神殿や律法に根拠を置くユダヤ教の指導者であるサドカイ派やファリサイ派の人々です。彼らとローマの権力との共謀でイエスは十字架で処刑されました。
 しかし、死からよみがえらされたイエスは、メシア預言を成就した、活ける救い主として、とりわけ信じる者たちの群れである教会を通して、ご自身が地上で行ったのと同じ「神の国(正義と公平による平和の支配)」を告げる働きを遂行し続けておられます。そのためイエスは、私たちに「主の祈り」(マタイ6:9−13)を教えてくださいました。私たちキリスト者と教会が地上に遣わされているのは、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」との願いを実現していくためなのです。
 その「御心」のうちにある「神の国」は、「正義と公正による平和の支配」に他なりません。それは日本国憲法の徹底した平和主義と基本的人権の尊重の理念や精神に、限りなく合致していると言ってよいでしょう。そうであるなら、今こそ日本の目覚めた者として、67年前の敗戦と昨年の原発事故の敗戦の歴史的事実を重く受け止め、敗戦の責任者への追及と処分を厳正に求めつつ、平和憲法を守り活かすために祈りを結集し、日米安保条約を解消して日米友好条約を締結する方向に政策転換がなされ、全原発の廃炉に向けた政治決断が行われるように、力を合わせて行動しようではありませんか。





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