「平和を説くは非現実か」


日本基督教団総会議長      
山北 宣久(やまきた のぶひさ)

   「相歎き憎み戦う世にあって 愛を説き平和を説くは非現実か」

 これはかつて厳しい政治社会状況・天皇制を柱として右傾化していく世相の中で、信仰的立場を明確にしつつ、東京大学総長をつとめ、為政者と対峙していった南原繁の歌集「形相」の中にある句です。
 この信仰の先達に見られる姿勢に倣っていかねばなりません。
一体、平和が非現実のように思える現実だからこそ、人は平和を熱望するのでしょう。人間は足りないものこそ望むのではないでしょうか。満ち足りているなら求めません。「ないものねだり」という言葉が否定的に使われますが、ないからこそ求めるのだ!と積極的に使用したいものです。
 「求めなさい。そうすれば与えられる」(マタイ7章7)と言われた主イエスにあって、失望の中でこそ希望を募らせていくことにより人間性を確保していくことにしましょう。
私たちは憲法9条を守り抜く努力、その努力を持続するための祈りを共にしていますが、その9条の基を作った時の首相、幣原喜重郎の言葉を忘れてはならぬと思います。少し長くなりますが引用しましょう。
 「非武装中立−それは確かに狂気の沙汰である。だが狂気の沙汰ではない沙汰とは何であろう。武装宣言が正気の沙汰なのか。それこそ狂気の沙汰ではないか。考えに考え抜いた結果、その結論はもう出ている。そうだ、世界は今、一人の狂人を必要としている。何人かが、自ら買って出て狂人とならない限り世界は軍核競争の蟻地獄から脱出できないのである。これは素晴らしい狂人ではないか。世界史の扉を開く狂人である。その歴史的使命を日本が果たすのである。」
 この憲法をめぐる幣原首相の談話は風化しない、させない迫力を持つではありませんか。
「平和を説くのは非現実」「非武装中立は狂気の沙汰」という声の中に自覚的に立ち続ける気概を持つことにおいて、一歩も退かない者が何人残るかということで決まっていくような感じがします。
 パウロはローマの信徒の手紙11章でイスラエルの残りの者に触れてこう書きました。
「神は彼に何と告げているか。『わたしはバアルにひざまずかなかった7千人を自分のために残しておいた』と告げておられます。同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。」(4節)
 この「残りの者」が平和を実現するキリスト者ネットに関わる皆さま方であることを、あらゆる活動を通して確認させられ心強く思っております。
 戦い争いの連続の中で、自ら葛藤を演じながら神の言葉を預かり民に告げていたエレミヤは言っています。「あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来の希望を与えるものである。」(29章11)神の平和の計画が私たちを守ることに裏打ちされて、共に平和を実現させましょう。




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