高価な平和を目指して


日本YMCA同盟 総主事
ゾンターク・ミラ

 『戦後和解』(中公新書、2005年)において小菅信子(政治学者)は、近代に入ってから新しいタイプの平和構築の在り方が誕生したという。近代以前ヨーロッパの戦後平和構築は戦った国が戦争の罪を共に神様の前に告白し、平和構築と同時に互いを襲った悲惨を一切忘却しようと誓ったことが大前提であったが、近代以降「平和=忘却」という価値観が変わり、講和条約を結んでも、過去の悲惨を絶対忘れない、つまり「平和≠忘却」へと変わった。こうした新しい思想背景において戦後平和構築は小菅氏が言う「綱引きとバランス」によって達成された。「裁き」を神様に任せた近代以前の講和に対して、近代においては、敗戦国の中に加害者・侵略者=戦争犯罪人が「綱引き」をもって加害者に騙されたもの=被害者から隔離され、戦争裁判によって裁かれる。「邪悪」な者が侵略を受けた被害者と加害者に騙された上で被害者とされる敗戦国の国民との間に戦争の共通経験に集中しながら、両者の感情対立の解決を目指す「バランス」が生じうる。
 小菅氏の研究は第二次世界大戦後の日英関係修復を中心としているが、日本とアジアの諸国との和解問題はもちろん常に潜在する。名高い平和学者ガルテゥングによれば、アジア圏内の和解も上記の「綱引きとバランス」というパターンで考えられる。(日本も含んだ)アジアの諸国は戦争に導いた欧米の帝国主義の被害者であるという認識に達すれば、アジア圏内のバランスも作れるのではないかと。小菅氏の解釈では東京裁判に様々な構造的問題があったので、アンバランスの状態が続く。
 以前の講和の試みの殆どが、キリスト者による試みもあったとしても、この「線引きとバランス」のパターンで行われたのが事実かもしれないが、私はキリスト者としてそれに賛成できない。このパターンの和解ができた場合、現世的な平和と和解しか得られない。つまり武力闘争がやみ、少数の犯罪者が裁かれ、また「犯罪者」以外の者は独善的な判断に基づいて安心できるかもしれない。しかし、加害者としても被害者としても戦争の悲惨を身近に経験した者が、その経験を通して人間の本質を一層自覚できたとは決して言えない。自覚には、経験そのものだけではなく、もしかして経験よりも、反省・清算の在り方が決定的だと思う。「線引きとバランス」による平和と和解は、ボンヘッファーの「安価な恵み」の意味での「安価な平和」にほかならない。なぜかというと、それは「すべて」の人間の罪作りを無視している。それは全く人間的な平和であり、神様の見方を等閑に付す。こうした講和の仕組みには神学的根拠がない。
 キリスト者として人類の切望である平和を実現しようとする時、私たちは神様の「高価な平和」を目指すべきであり、それに絶え間ない神学的な反省も必要だと思う。福音が指している平和と和解をどのように現世的な平和と結びつけたらいいかを日常の活動において常に考えたい。





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