「戦後60年、教会の課題」天皇の戦争責任を問う

日本キリスト者医科連盟
大久保 進



 小泉首相を始めとする日本人の歴史認識の欠如が今、中国・韓国から指摘されています。何故日本人の歴史認識(15年戦争での日本のアジア諸国民に与えた残虐行為)が薄いのか。飛躍するようですが、私はその根底に天皇の戦争責任を免除した東京裁判判決があると思います。東京裁判そのものに対する批判「戦勝国が敗戦国を裁く裁判は無効」とする東京裁判への批判、そこから生じる靖国神社参拝への共感等はすべてここから起因していると思えて仕方ありません。敗戦時の占領政策としてマッカーサーが天皇(大元帥)の戦争責任をあえて問わなかった状況は、当時の日本人の意識を知っている者としては分からないでもないですが、その後の戦後60年の歩みの中であえてこの問題を問わないできた日本は、戦後60年を迎えた今再び戦争のできる日本、平和憲法の改悪を目指す戦前復帰への道が進められ始めています。60年といえばわが国では、十干・十二支を組み合わせた還暦の年です。再び戦前に帰ろうというのでしょうか。
 戦後60年とは何か。改めてこの課題と正しく向き合うことが、教会に求められているのではないでしょうか。
 戦後40年はドイツのヴァイツゼッカー大統領の「荒れ野の40年」に象徴されます。過去への責任を負い続けることの大切さが問われた年です。
 戦後50年は当時の「福音と世界」(1995年8,9月号)に示されるようにキリスト教各派・教会・団体の戦責告白の年でした。
 戦後60年は、私は天皇の戦争責任を改めて問う年として受け止めています。
 この60年、天皇制は戦後の日本にあっても象徴天皇制として継続されています。それ以上に日本人の心の中に生き続けています。天皇の戦争責任が免除されているということは、日本人の戦争責任も免除されている、いや東京裁判でA級戦犯として死刑判決を受けた人々もその罪は免除されているという思いが、多くの日本人の心の中にあるのではないでしょうか。なればこそA級戦犯者の靖国合祀も実現したのでしょう。また小泉首相ほか各閣僚の靖国参拝も。
 死者に鞭打たず、昭和天皇は既に亡くなられている、今更その罪を問題には出来ない。そうでしょうか。世界の論理は違います。過去に水を流す。この姿勢が日本人の歴史認識の薄さとして今問われるのです。
 NCC靖国神社問題委員会は、去る7月13日「昭和の日成立に反対する見解」を出し、このたび国会を通過した「昭和の日」を今後私たちは昭和天皇の戦争責任・戦後責任を追及する日として守ることを表明いたしました。
 今、教会に求められているものは、ここにあると私は思うのです。





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