「史実を正視し、心からの謝罪を」

日本友和会(JFOR)理事長
武祐一郎(たけ ゆういちろう)



 歴史を学ぶ時に、「史観」が大切であることはしばしば耳にしてきたが、「史観」にとらわれ過ぎると客観的な事実が見えなくなる場合が多いのではないだろうか。
 「新しい歴史教科書をつくる会」の会長・八木秀次著『国民の思想』(2005年3月産経新聞発行)をちょうど読み終えた日に、衆院予算委員会における「戦没者の追悼の仕方について、他の国が干渉すべきではない」という、小泉首相の中国や韓国に対する挑戦状のような発言をテレビで見て愕然とした。「つくる会」の人たちや、小泉首相をはじめとする日本の指導者と目されている人たちは、なぜ、史実を正視出来ないのだろうか、と不思議に思えて仕方がない。「史観」や「先入観」にとらわれ過ぎているのではないだろうか。
 私は、1944年1月のはじめから10月中旬までの9ヶ月余、東部軍司令部の経理部に軍属・技術雇員として勤務したことがある。その時に、中国で数年間、下士官待遇の軍属として陸軍で働いて帰還された方が私の上司になられた。その方がこっそりと、中国で行われている日本陸軍の戦争は、「聖戦」などとはほど遠い「醜悪」なものであることを語ってくれた。その時、それは驚きであったが、軍国少年として育てられた私は聞く耳を持たなかった。その年の10月下旬、念願がかなって陸軍士官学校に入校したが、そこでまた一つの驚くべきことを知らされた。中国戦線から帰還した区隊長K大尉が週番士官として中隊に宿泊する時、「眠りにつくまで電灯を消すな」と必ず不寝番の生徒に命じた。その理由が暗くなると、中国で虐殺した一般庶民の亡霊にさいなまれるからだということであった。
 また最近読んだ保坂正康氏の「兵士たちの精神的傷跡から靖国問題を考える」の文章(『世界』2004年9月号)の中に戦時下で撃ち殺してしまった子どものことを思うと、どうしても自分の孫が抱けないという方のことが書かれ、戦場で受けた心の傷の深さを思わされた。そして、保坂氏は「戦争は不条理なものであるからこそ、条理ある慰霊と追悼が求められる」と強調している。
 以上述べてきたのは、中国における日本陸軍が一般庶民に行った残虐行為が、「歴史観」以前の客観的な史実であることを強調したいからである。史実を正視し、心のこもった謝罪を行うならば、中国をはじめアジアの諸国の政府だけでなく庶民から真の信頼と親愛が得られることを確信している。史実の正視と心からの謝罪の声を日本の為政者の耳に届くような大きな声にする必要があると同時に、庶民にも絶えず呼び掛け、民間外交においても、それを述べ続けることが非常に大切なことではないだろうか。





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