殉教者
エドガル・ガクタン司教(仙台教区長、日本カトリック正義と平和協議会担当司教) 
 カトリック仙台教区が管轄している4県に、約千人の殉教者がいる、その県ごとの人数は、青森県の弘前で88人、岩手県の盛岡と花巻と遠野で140人、水沢で 98人、一関で14人、藤沢町大籠で310人、宮城県の登米市東和町米川で120人、96人、福島県の会津若松で62 人、白河で16人、二本松で14人、猪苗代で多数(人数不明) 、と言われています。
 岩手県奥州市水沢区福原寿庵廟で福者ペトロ岐部が捕まえられましたが、 江戸に護送されました。この同じ町において迫害を忍んでいた一人のクリスチャン後藤寿庵を記念する春と秋の寿庵祭は、地元の方々と密接に関わりのある祭りです。カトリック水沢教会が春の寿庵祭を主催しますが、秋の感謝祭は地元自治体主催で行なわれます。
 後藤寿庵はいつどこで生まれたか、いつどこで死んだかは分かっていません。しかし、九州の長崎・五島にいるときにカトリックの洗礼を受け、ヨハネ(ジョアン)の洗礼名をもらったと伝えられています。そこで、外国での土木建築、工事の基礎的な方法を学んだのではないかと言われています。後藤寿庵が、伊達政宗の家臣として、現在の水沢市見分の領地をいただいたとき、その地は荒れ果てた原野のように見えたのです。稲作をしている農民は苦労して水田でお米を育てるのですが、水が豊かでないため、苦しい生活を強いられていました。寿庵は、長崎で学んだキリシタンの用水土木技術を家臣に教え、ともに、用水路を掘り始めました。
 用水路は、工事途中だったのですが、迫害が厳しくなり、家臣や領民たちは後藤寿庵を迫害に遭わせるには忍びなく、現在の岩手県か秋田県に逃したと伝えられています。寿庵が手掛けた用水路は、家臣の手に引き継がれ、現在の堰は1631年に完成しました。その結果、あの原野は、有数の穀倉地帯と言われる胆沢平野となり、現在も農業用水に用いられています。
 本稿の題ですが、この語彙の代表的な定義は、「自身の宗教を放棄することを拒否した罰として、自ら進んで死ぬ人」、「主義のために犠牲を受け入れる人」です(ei-navi.jp/dictionary/content/martyr)。殉教者は、「尊い犠牲」あるいは「英霊」という戦争で命を落とした人を指す言葉と似ています。禁教令による迫害の中で、殉教者たちは、ごく普通の生涯を送りたいと念じていた人々に違いありません。兵士も戦場で必ず死者が出る覚悟の上で赴いても、家に帰れるように、愛する人と平和に暮したい、きっとそう希望するでしょう。ペトロ岐部は、潜伏は困難であることを悟り、宿主に害が及ばぬよう捕らえられることにした、と言われています。
 宗教の自由を生きている私たちに対して、殉教者のメッセージは何でしょうか。「神と一致した生き方を貫いたこと。言い換えれば、神の価値観を公言し、福音的でない価値観を、勇気をもって拒否したことではないでしょうか」。これは、日本カトリック司教協議会の殉教者列福調査特別委員会の答えです(cbcj.catholic.jp/saintbeato)。
 神が望まれる平和、神の価値観「一人ひとりの命が尊い」を一人でも多くの人と共有し、広めていきたいと思います。

「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。」イザヤ書2:4