「政教分離の原則って!?」
 日本聖公会 管区事務所総主事  矢萩新一 
 戦火や震災によって犠牲となった方々の魂の平安、今も不安と困難の内にある方々を、主が抱き守ってくださることをお祈りします。
 「教会では政治的な話をしてほしくない、 聖職者は信徒をミスリードしている!」というお声を聞くことがよくあります。 多くの場合、憲法第20条(信教の自由) の中の「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」 「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」という文言や、 第89条の「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、 便益若しくは維持のため、 又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」という「政教分離の原則」が理由としてあげられます。 しかしそれは、宗教者は政治的な事柄に関わってはならないという誤解によるもので、正義と平和に関わる委員会や担当者の間でいつも課題として取り上げられることでもあります。
 「政教分離の原則」は、 第二次世界大戦時の天皇を元首とした国家神道により、天皇崇拝や神社参拝を強要し、 アジア諸国に侵略したことへの反省として、 国と宗教の関わりについて規定していると理解しています。 そして、憲法は国に基本的人権を守らせるために定められたものであって、 宗教者がその信念に基づいて国の政治に対して発言・行動することを妨げるものではないことを覚えていたいと思うのです。
 災害や弱い立場にある方々への支援などについては、すんなりと受け入れられやすいのですが、戦争や憲法、 原発や自衛隊、 天皇制のことなどについて声明や抗議文を出すたびに、様々な立場や考えがあるから控えるべきだ、政治的なことだから教会では相応しくない!とアレルギー反応のように声が聞こえてきます。 どれもこれも神さまから愛され与えられた 「いのち」の課題であり、イエスさまの弟子として生きようとする私たちの信仰の課題ではないかとお応えしています。 教勢の弱体化が進む中、牧師はもっと礼拝や説教の準備に専念して信徒をケアして増やすことに専念してほしい、信徒が安心して祈りをささげられる場であって欲しいという思いも理解します。 しかし、自然を含むあらゆる 「いのち」に仕え、 「となりびととなるために」 教会の建てられた地域の必要に応えるというキリスト者の使命に生きようとしなければ、 存在意義を見失ってしまうのではないでしょうか。
                   (やはぎ しんいち)