「ああ進んで戦はざる可からず」
日本基督教団千代田教会牧師、
日本クリスチャン・アカデミー関東活動センター
戒能信生
 柏木義円の日記を少しずつ読んでいる。明治期後半から大正期、そして昭和前期を群馬県安中教会の牧師として『上毛教界月報』を粘り強く発行し続け、それぞれの時代に向き合った人である。友人の片野真佐子さんによってその日記が翻刻され、行路社から出版されている。しかし膨大過ぎることもあって、所々拾い読みするのが関の山、精読するには至っていなかった。それを、義円研究の仲間たちと少しずつ読み込んでいるのだ。まだ大正期の前半までしか読み進めていないが、そこには赤裸々な義円の日常が克明に書き込まれている。
 義円は、毎朝早朝に起き出し、先ず日課の聖書を読んで祈る。病妻に代わって掃除をし、水汲みをして朝食の準備を整え、家族に食べさせる。そしてほとんど毎日、信徒の家庭を訪問する。(例えば、明治44年の正月には、「年賀に出て六十余軒を訪問す」とある。その数尋常ではない。もって義円の近隣の人々への姿勢を窺うことができよう。)共寝していた幼児の夜尿の後始末をし、布団を干して洗濯をする。家事や育児を担う義円の日常が連綿と続く。その傍ら『月報』の原稿を書き、その編集を担うのである。さらに教会員を初め、友人・知人たちにこまめに手紙を書き、福音を勧め、牧会に励んでいる。
 明治末年、大逆事件の余波は上州にも及び、知人の社会主義者が逮捕され、自身も終始警官に尾行される中で、義円は度々監獄を訪ねて慰問している。そして日記にこう書きつける。「予は教会内にあり信徒諸君を外囲とし、極めて安全の地位に在て放言するもの也。信徒諸君は返て世と接して戦ひあり、ああ進んで戦はざる可からず。」(明治44年6月18日)
 義円は、片田舎の安中にあり、特別なニュースソースを持たなかったはずである。しかし当時の新聞や雑誌を通して時局を凝視し、見るべきものを鋭く観察している。
 義円の最晩年、1938年1月に78歳で亡くなる数か月前の日記には、こう記される。「毎日の新聞で不愉快なるは日支事件、之をいい気になって居る軍人と政治家!」(9月8日)、「支那事変憂ふ可し、軍部の野心に摺らるる日本! 近衛首相何者ぞ、唯日本を所謂大にしたいと云うのみ、国民の福祉、世界文化に何の考へあるか。」(9月10日)、「日清戦役軍費2億円、日露17億円、今回25億円、日本は何故支那まで往ひて戦ふか、支那を分割して得んと欲する為であらう。」(9月13日)
 義円は特別な信仰理解や神学的立場に立っていたわけではない。ごく当たり前の正統的信仰理解を保持していた。そうであるのに、時の徴を見抜き、支配的な時局観を越えて真正面から時代と対峙することができたのか。これは、そのまま2023年現在の私たちの課題ではないだろうか。          
             (かいのう のぶお)