「鋤を剣に」してはならない
日本バプテスト連盟 常務理事 中田義直
  ロシアによるウクライナ侵攻から半年が過ぎています。世界の目がウクライナに向けられ、そこから逃れてきた人々への支援の輪が広がる中で、内戦などによって命の危険が迫る中、日本に逃れてきた人たちが難民として受け入れられないということも伝えられています。メディアに取り上げられる、大国が関わっている、そのような違いによって、命を脅かされている人たちへの対応が異なっているという現実からも私たちは目を背けてはならないでしょう。
そして、ひとたび戦争が起こるとその戦いの中で原子力発電所まで攻撃の対象となっていく。そのようなことさえ正当化されてしまうのが戦争の現実だと思い知らされます。
その一方で戦争が起こることを望んでいる人たちがいることも事実です。ある報道では、ウクライナの現状が軍需産業にとって、格好の兵器のデモンストレーションの場となっていると言われています。今、多くを殺す兵器を生み出すものが莫大な富を得ているのです。
 聖書の言葉の背景にある世界状況は、平和で穏やかな時代よりも、戦いの中、また、戦いに敗れて非常に苦しい状況に置かれている、という背景が多いように思います。
 予言者イザヤが召し出された時代、それは、アッシリアによって北イスラエルが滅ぼされ、南ユダ王国も危機に瀕している、まさに危機的な時代です。その中で、神様は裁きの言葉をイザヤに託します。それは、神様に背を向けて、この世の力に頼ろうとする、偶像に頼ろうとする民への叱責の言葉でもありました。しかし、イスラエルの民のように、この世の力、強い武力を有するものに頼ろうという思いは、いつの時代でも起こります。
 「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。」(イザヤ2章4節)
 平和を守るために、剣を作る。槍を持たなければ平和を守ることができない。それが、「現実」だという主張が繰り返されます。「剣を鋤に、槍を鎌に打ち直す」などというのは「お花畑」だと。しかし、鉄という一つの素材を、命を奪う剣や槍ではなく、命の糧を作るための鋤や鎌とすることを主は求めておられるのです。
同じ「鉄」という素材を私たちは、命を奪うための剣に作ることも、命の糧、命を生かすための鋤とすることもできるのです。そして、私たちは、そのどちらにするかを選ぶことができるのです。             
                       (なかだ よしなお)