わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない
(ヘブル人への手紙11:40)

日本キリスト教会靖国神社問題特別委員会委員長  小塩海平
 ヘブル人への手紙11章には、信仰に生きた主の民の歴史が綴られている。それは輝かしい歴史というよりは、脈々たる苦難の歴史であった。その頂点はキリストの十字架である。さらにその締め括りとして「神はわたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので、わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない」という注目すべき言葉が語られる。天地創造のみわざも、主の民の苦難の歴史も、さらにはキリストによる救いの成就も、ほかならぬ私たちを目指して前進してきたのだ。私たちは多くの証人たちに囲まれながら、あらゆる苦難を、主の訓練として耐え忍ぶよう召されている。この訓練は、私たちが子として扱われている証拠であり、父なる神は、平安な義の実を結ばせるとの約束をも賜った。私たちは、この約束により頼み、イエスを仰ぎ見つつ、走るのである。
 戦争の証人たちが、ひとり、またひとりと、この世を去っていくのを目の当たりにするとき、「わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない」という御言葉が、あらためてリアルに迫ってくる。もちろん、この御言葉を、直接、戦争罪責の継承に適用することには異論もあろう。例えば、戦後70年の首相談話では「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子供たちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と述べられており、罪責が世代間で継承されるいわれのないことが強調されている。しかし、被害を受けた人々が世代を超えて否応なく重荷を負わされ続けている実状に鑑みるとき、加害者の罪責は継承されないと無碍(むげ)に言い切ることができるであろうか。まして、罪を知らないイエス・キリストが、関わりがないどころか、むしろ敵であった私のために十字架で果たしてくださった贖いの死を身に帯びているキリスト者は、一世代前の戦争責任に対して関わりがないとは言えないはずである。
 戦争罪責を担うことは、キリストが私にしてくださったみわざに応えることにほかならない。責任(responsibility)とは応える(respond)ことである。さらに私たちは、父祖のなした罪や被害者の受けた犠牲にも応えなければならないだろう。こうして、私たちは、主の民のフロンティアとして、平和を作り出すわざに参与するのである。
                      (こしお かいへい)