日本人であることの常識?
植松 誠       日本聖公会北海道教区主教
 先日、関西に行った際に、芦屋市の昔住んでいたところを巡礼した。巡礼というのは、その地が阪神淡路大震災で壊滅的な被害を受け、私がかつて住んでいたアパートも倒壊し、私の後に移り住んだ方は亡くなられたということで、私は震災後、何度もこの地を訪ねてそのアパート跡で祈りをささげているからである。今回の巡礼で、その近くに小さな神社があるのに気が付いた。それは、私が牧師の駆け出しとして、日本社会で生きることの難しさに直面したあの「事件」を思い出させるものであった。
 今から38年前、私は芦屋の教会に副牧師として赴任したが、副牧師の住宅は教会からかなり離れたところにあった民間アパートで、周りは住宅が建ち並んでいた。住み始めて1年経った頃、それまでたいして関心を持たなかった町内会の年間報告書に、町内会費からその地にある日吉神社に祭礼費が支払われているのを見つけた。普段は神職もいない小さな神社だが、お祭りの際には神輿が出たりしているのは知っていた。この神社への祭礼費として私が納める町内会費から支払われる金額はたいしたものではなく、ほんの30円か40円ほどであった。しかし、私は納得できず、早速町内会の役員を訪ね、キリスト者である私が神社の祭礼費を払うことはおかしいと談判した。結果的には私の思いや考えはまったく通じなかった。私の主張に対して、彼はびっくりした顔で、「あなたは、この町内に住んでいるのだからそれは自動的に日吉神社の氏子ということなのだ。あなたがキリスト者であろうと仏教徒であろうと、日本人である以上、あなたは日吉神社の氏子だ」と言われた。
 私のアパートの近くに他教派の教会があり、その牧師とも懇意だったので、私は彼にこのことを相談した。彼は、「植松先生、あなたの考えはまったく正しいのだけれど、それはみんなにはわからない。もし、あなたがこのことに徹底的に取り組むのであれば、町内のキリスト者、共産党や無宗教の方たちとスクラムを組んで、裁判闘争をしなくてはならない。時間も莫大な費用もかかる。この地域で生活できなくなる。しかも裁判に勝利する保証はない。それでも闘う覚悟はあるか」と。私は、立ち塞がる壁のあまりの厚さと高さに、ただ沈黙せざるを得なかった。
 その後、この社会「常識」が、かつて、あなたは日本人であるのだから天皇の赤子(せきし)なのだということで戦争に無理矢理に駆り出されていき、お国のため、天皇のためにいのちをささげることが当たり前とされた時代から、今も連綿と続いていることを、いろいろな状況の中で感じている。
                  (うえまつ まこと)