正しさの権威
久世 そらち       日本基督教団総会副議長
日本キリスト教団札幌北部教会牧師
 新型コロナウイルスの感染予防のためとして、さまざまなレベルで「自粛」の要請が繰り返さ れてきた。
  「自粛要請」とは考えてみればおかしなことばだ。辞書で「自粛」をひくと「自分の考えでつつしむこと」とある。「要請」は「求めること」。「自粛要請」とは「自分の考えでつつしむように求める」 ということか。では、つつしむのは自分の考えなのか、誰かに促されたからなのか。 自分で決めたのか、誰かに示されて従っているのか。
  「自粛」は本人の考え次第のはずなのに、「自粛しない」といって他者を非難攻撃し、 さらには事実に基づかない誤解に基づき、いいがかりのような誹謗中傷にまで及ぶ、「自粛警察」と称される動きがある。
 こうした雰囲気は、かつての戦争の時代を思い起させる。国策に従わない「非国民」を、 軍や警察が取り締まるだけでなく、一般の人々が隣人を監視·批判·非難·攻撃していった。さかのぼれば、関東大震災の際、 「朝鮮人が井戸に毒をいれた」と根拠のないデマが流れ、町に 「自警団」が作られて多くの人々が殺されたこともあった。
 人は、正しいと信じれば残酷なまでに人を攻撃できる。その正しさの根拠が、自分自身の判 断や責任ではなく外部に由来するときほど、相手に対して強く無慈悲にふるまうことができる。 「自粛警察」も国や自治体の「自粛要請」を根拠としているし、戦争中はもちろん、関東大震災の際のデマも「警察や軍が動いている」と、もっともらしく根拠づけられた。権威ある正しさを背負うと、人は他者に対して無慈悲になれる。正しさが、罪と悪をもたらすのだ。
 「正しさ」に力を与える権威としては、歴史的には国家や党派、 宗教などが挙げられる。だが実際にしばしば私たちが直面するのは、「世間」という権威だ。目に見えない、組織もない、どこにも責任者のいない、「空気」という権威が人をどこまでも圧迫することを、私たちは身をもって知っている。この「権威ある正しさ」が暴力的にふるまうとき、私たちは何に拠って抗することができるだろうか。
 ひるがえって、私たちは、どんな「正しさ」を信じてふるまうのか。他者を攻撃し隣人を損なってしまうことのない、真実の平和をもたらす「正しさ」を、ほんとうに背負うことができるだろうか。
                        (くぜ そらち)