「当事者性と匿名性」
永吉 秀人  日本福音ルーテル教会宣教室長 
 今号の巻頭メッセージは、「日本福音ルーテル教会」の担当であるという理由で「宣教室長」に託されましたが、「平和を実現するキリスト者ネット」の活動からすれば、名も知らぬ者が書くことをご容赦願いたい。
 「日本福音ルーテル教会」と一括りに言いましても、神学や社会問題への取り組みには穏健派から強硬派までおりますが、表面的な「和を以って貴しと為す」風潮があり、あらゆる面で分裂を回避するために議論がし尽くされては来なかった歴史と現実は否めません。近年改まり、「日本福音ルーテル教会 社会委員会」名で適宜声明が発信されていますが、「日本福音ルーテル教会」がそうなったわけではなく、委員の働きによるのであり、今後も委員会による啓発と牽引力に希望と期待を抱くものです。
 かつて、私が組織的に関わったのは被差別地域の人権問題でした。きっかけは静岡県のミッションスクールで聖書科教師もしていた時、教育委員会主催の生活指導者研修会で人権問題が取り上げられたことです。講演後の質疑で講師にお尋ねしたことは、「講師ご自身に差し支えない範囲で、当事者か、同伴者か、客観的立場かをお伺いしたい」というものでした。これに対し、講師はきっぱりと「当事者です」との姿勢で応えてくださいました。
 何かを発言しようとするならば、自分の立場を明確にしなければ、そのメッセージは誰にも届きません。それゆえ、講師の立場をお尋ねしたわけです。
しかし、誰もが当事者であることを明らかに出来るわけではないことも知らされました。
 別の機会に、関西で人権問題の学習会を企画した際、担当者が被差別地域出身の講師の許可なく当事者であるというチラシを配布したことで糾弾を受けました。当時の委員長の「当事者でないとおもしろくない」という発言により、解放運動に取り組む組織の神学が問われました。謝罪で和解はしたものの、神学の掘り下げには至っていません。これにより、当事者性を求める余り、差別を助長してきた組織の体質に気づかされました。
 当事者の言葉には、その痛みゆえに説得力があります。また、当事者と連帯することで活動家として認知された気にもなりますが、これは当事者を盾にしていたのだと自省しました。
 たとえ当事者不在であっても匿名であろうとも、世界にはあってはならない事柄があります。キリスト者としてイエスの名のもとに、あってはならないことに抗っていく立場を選びたい。
                  (ながよし ひでと)