教会には「強さ」があるか
加藤 誠  日本バプテスト連盟理事長  大井バプテスト教会主任牧師

 今年の受難週の主日(4月14日)、大井バプテスト教会で「ルワンダ虐殺を憶える受難週夕礼拝」がささげられました。日本バプテスト連盟はルワンダに佐々木和之さんを国際ミッションボランティアとして派遣していますが、その佐々木さんが平和学を教えているPIASS(Protestant Institute Art of Social Science)から日本に来ている二人の留学生と友人たちが企画し、私たちの教会が協働する形で実現したものです。
 夕礼拝では留学生のシュクルさんが証し、ロドリグさんが賛美をし、CBF(CooperativeBaptist Fellowship)のフーシー宣教師が説教、大井バプテスト教会の広木愛牧師が主の晩餐式の司式を担当したのですが、二千年前のエルサレムの悲劇と、25年前のルワンダの虐殺、そして今の日本が生み出しているさまざまな差別と分断の課題が重なり、参加した者たちに十字架の道を歩まれた主イエスの問いかけと招きが重く響く礼拝となりました。
 特にシュクルさんは、ルワンダでは植民地の宗主国と権力者たちがつくりだした「民族」というまやかしによって多数派のフツと少数派のツチの間に対立が生まれ、祖父母の代からタンザニアで難民として暮らさざるをえなかった家族の歴史を語りつつ、礼拝参加者にこう問いかけました。
 「最後に、虐殺について私が一番混乱していることを皆さんと共有したいと思います。それはキリスト教のことです。94年当時、ルワンダでは人口の約90パーセントがクリスチャンでした。しかし、教会は正義を守ることをせず、教会の指導者や信徒は、同じクリスチャンである人々の殺害に参加しました。私がもっている疑問はここにあります。『キリスト教には、虐殺やその他の残虐行為に対して闘いを挑めるほどの強さがあるのだろうか』」。
 最近のキリスト教界では、いわゆる「教勢」の不振の危機感から「やはり伝道と祈り、牧会だ」という声が聞こえていますが、シュクルさんの言葉はイエス・キリストの教会に求められている「強さ」とは何かを厳しく問うものとして、私の心に突き刺さりました。武器を手にした人々を前に、イエス・キリストの信仰において明確に「NO」と言明する「強さ」を、私たちは普段の教会の礼拝や交わりにおいて聖書から聴きとり、受け取っているか。自分たちを慰め、楽しませ、安心させてくれる範囲だけにキリストを押し込めて、聖書をつまみ食いしている私たちではないか。2019年の日本で、イエス・キリストが私たちを揺さぶり、拓き、招いている神の国の福音を受け、生きていく教会の責任を深く問われた夕礼拝となりました。
                 (かとう まこと)