神は御自分にかたどって人を創造された(創世記 1:27)
平良愛香   平和を実現するキリスト者ネット 事務局代表
  昨年12月の平和ネットのニュースレターのクリスマスメッセージとして、こんなことを書いた。
 ~天皇の代替わりが近づいてきた。「今の天皇は、戦争を始めた人じゃないし、むしろ平和を願い、私たちのために祈ってくれている、親しみやすい、いい天皇だ」「自ら天皇の地位を退くなんて、なんて人間的な方だろう」そんな声を聞いた。代替わりは国民的行事でもいいと思っている人たちも増えつつある。とんでもない。かつて「国こそが一番大切。国民はそのために命を捧げよ」と教えた日本。そしてそのトップにいたのが天皇。戦後は「国の象徴」という美しい呼び名がつけられ、そのために「国が一番大切」というモットーを見事に維持する役割を果たしている。総理大臣や最高裁判所長官の任命をし、元号によって時間を支配する。キリスト者は、天皇を「異教」だから否定するのではなく、「戦争を肯定して美化する教えの象徴」である天皇およびその制度を認めないという立場に立たざるを得ない。慣れてはいけないのだ。~
 昨年夏から冬にかけて、こんな言葉を幾度も耳にした。「平成最後の夏の甲子園」「平成最後の文化の日」「平成最後の紅白歌合戦」。その中で最も違和感を持ったのが「平成最後のクリスマス」。違和感の理由は明らかである。クリスマスは元号に支配されないからだ。ではほかの日や行事は元号に支配されていいのだろうか。違和感を抱かなくていいのだろうか。
 「元号は日本の文化だ」と言ったクリスチャンもいる。けれど私たちが確認しないといけないのは、私たちは、キリスト者であろうとなかろうと、「天皇に支配されている時間」を生きているのではないということ。一人ひとりが神から与えられた時間の中を生きているのであって、人間による支配の中を生きているのであってはならない。同時に、支配者の対極に生まれる「被支配者」を生み出してはならない。人間は「神にかたどって創造された」存在である。これは「何者にも支配されない、一人ひとりが尊厳を持つ存在とされたこと」に他ならない。元号をただの文化として軽く受け流してはならない。代替わりで行われることは、「皇室の中で、人間が人間としての権限を奪われる儀式」であり、「新しい元号での天皇による時空支配の更新の儀式」である。
  あるキリスト教団体が出している小冊子で、「天皇の代替わりQ&A」という特集が最近載った。結論として、「天皇と皇族のためにとりなしの祈りを捧げなさい」ということだったと知った。天皇・皇族を肯定してしまう信仰に疑問を持つ人もいるだろう。でも一番問題なのは、神にかたどって造られたはずの私たちが、天皇や元号を肯定しないまでも否定できずに、結果として「良し」としてしまっていることではないだろうか。
                     (たいら あいか)