ノーブル・サヴェージ
上中 栄           日本福音同盟社会委員会委員長
日本ホーリネス教団旗の台協会・元住吉教会牧師
 「高貴な野蛮人」などと訳されるこの言葉 は、概して西洋文明が失った人間像を 野蛮人や未開人に見出そうとする考え方を表す。かつてはアメリカ開拓時代のインディアンを指した。開国直後の日本も、そう見られていたと言われる。
 これには、近代文明に対する自己批判 や、未開人への偏見を反省する要素が含 まれる。それはいいのだが、この考え方で 厄介なのは、明らかな差別的言動と違い、 自己批判ができる自分は優位だという感 覚によって、表面上は友好的でも差別意 識は潜在化することだ。ノーブル·サヴェ ジは、無意識に見下している相手を褒めると いう、思考停止状態と解して大過ないだろう。 似たことは教派間にもあり、例えばホーリ ネスの教会の葬儀に出席した主流派の人 は、牧師に「お上手な司式でした」と上か ら言い、私が何か意見すると「ホーリネスに もロゴスが溜まってきましたな」と言う。やっ かみめいたが、要はこういうことだ。
 話を戻すが、日本のキリスト教史で言え ば、ハンセン病者に対するいわゆる「救癩」 活動がそうだった。高い志をもって救済活 動に従事にした人の中に、差別意識が同 居していたことが知られている。今日でも、 病者に、障がい者に、ハラスメントの被害 者に、被災者に、沖縄に、アジアに対して、同じことが起こり得る。これは、平然と悪口を言い放つ人には当てはまらない。
 そして私の見立てでは、この思考傾向と天皇制の精神作用はよく似ている。戦時下、「植民地」の教会に対して日本の教会は、「未開人」を持ち上げつつ、近代化の手助けをしてやろう、真のキリスト教を教えてやろうとした。皇民化や神社参拝の強要がそれだが、当時の教会指導者たちに、悪意や葛藤は感じられない。しかし、これを安易に批判する者もまた、自分が優位であるように錯覚するだけである。なぜ過ちに陥ったか深く考えなければ、私たちも葛藤を覚えずに過ちを犯すことになる。天皇制の精神作用の影響は、今なお健在だからである。
 天皇の代替わりが近い。天皇制のあり方については、天皇の生前退位表明や、大嘗祭に関する秋篠宮の発言など、「あちら側」から問われているように思う。私たちは何を思考し葛藤しているだろうか。政教分離原則を蔑ろにする政府批判だけをしても、思考停止の言い訳にはならない。福音によって自己批判ができる教会こそ、差別意識などから自由に人と社会を活かす言葉が語れるのではないか。改めて、日本の伝道が問われているように思う。
                       (かみなかさかえ)