「平和を追い求めよ」Ⅰペトロ3:8~12
唐沢健太  カンバーランド長老キリスト教会日本中会議長
 「平和を願って、これを追い求めよ」(Ⅰペトロ3:11)。平和を願い、平和を追い求めることは、キリスト者にとってそれは社会問題とか、政治問題と呼ぶことではなく、御言葉への応答という「信仰の行為」である。
 「ペトロの手紙 一」は、ローマが圧倒的な経済力と軍事力によって地中海世界を支配していた時代に書かれた。その当時のタキトゥスというローマの政治家は「ローマ人は、廃墟をつくるところを平和と呼ぶ」と言った。支配権を広げ、圧倒的な軍事力を使って町を破壊し、人の町を廃墟にする。それを「ローマ人は平和という」という。パックス·ロマーナといわれる「平和」の本質をつく言葉だ。
 「平和を願って、これを追い求めよ」。この美しい言葉を、「廃墟をつくるところを平和と呼ぶ」権力者たちもしばしば口にする。NGO・国際連合の職員として紛争地の紛争処理に当たっていた伊勢崎賢治は「ほとんどの戦争が平和を目的に起こされている。・・・・・・少なくとも指導者はそう国民を説得する」と戦争の本質的な部分を指摘している。戦争を始める指導者たちは「平和を願うからこそ、戦争している」というのだ。
 「平和を目的とした戦争」が、いかに矛盾にみちていることかを私たちは知っている。広島、長崎の廃墟を、あの原子雲の下の人々の阿鼻叫喚を「平和」と呼ぶことがどうしたらできようか。辺野古の美しい海を破壊し、無数の命を埋め立てながら語る「平和」は、「廃墟をつくるところを平和と呼ぶ」そのものである。
 Ⅰペトロは、「皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。 かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」(3:8~9)と、平和を願う具体的なあり方を示している。この反対を想像してみてほしい。「互いの心をバラバラにし、苦しむ人と共に苦しむことを止め、兄弟を憎み、憐れみの心を捨て、高ぶり、悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報い、相手を呪う」。
 今のわたしたちの世界に広がっていることではないか。これらは戦争の根である。これは神の御心ではなく悪である。だからこのような「悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ」と著者は語るのだ。その平和は決して「戦争を目的とした平和」ではなく、「廃墟をつくる平和」でもない。
 最後に、平和を願うことは大事であるが、「追い求めよ」と命じられていることを肝に銘じたい。これは「一心不乱に求める」と強い求めを表す言葉だ。一心不乱にすべての命が守られる平和(シャローム)を求める。これがいま、私たちキリスト者に求められる危急の信仰的使命である。
                      (からさわけんた)