《クリスマス・メッセージ》
「占星術の学者(マギ)たちが喜んだこと」
マタイによる福音書2章1−12節
事務局代表 日本基督教団川和教会牧師
平良愛香
 聖書のクリスマスの物語の中には「ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。(ルカ1:5)」「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。(ルカ2:1、2)」「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。(マタイ2:1)」「しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。(マタイ2:22)」というように、その時代の王や総督が誰であったかということがしばしば書かれている。これは、歴史物語として時代を言っていると同時に、人々がこの人物に「支配され」「従わされていた」ということが読み取れる。
 占星術によって新しい王の誕生に気付き、はるばるやってきた学者(マギ)たちの物語。東の国のマギたちは、おそらく砂漠を越えてやって来たのだろう。決して楽な旅ではない。命がけだったかもしれない。ようやくたどり着いたエルサレム。
 ところが、エルサレムがお祝いムードじゃないことにマギ達も気づいただろう。どんな気持ちでヘロデ王のところにやってきたのか。「ここで新しい王さまに会える」という期待よりも、王を怒らせるかもしれないという不安があったかも知れない。しかも悪名高いヘロデである。側近や自分の兄弟ですら自分の地位を脅かす者は片っ端から殺したことで知られているヘロデ。下手すると、マギたちすら「危険な噂を持ち込んだ一行」と見られて処刑されるかもしれない。そんな命がけのエルサレム訪問だったと見ることもできる。新しい王さまにどうしてもお会いしたい。どこを探しても見つからない。だから最後は命をかけてヘロデ王に直接尋ねる。そこまでしているから、マギたちは後に星を再発見したときに喜びにあふれ、そしてイエスと出会ったのである。
 けれど、救い主の誕生を喜ばなかった人たちがいた。ヘロデとその取り巻き、そしてエルサレムの人々だった。新しい王が生まれた、という噂は当然ヘロデ王にとっては嬉しくない知らせだろう。けれど王だけでなく人々も不安を抱いたのは何故?ヘロデが荒れるぞ、波風立つぞ。また不要な血が流れるかもしれない。そんな不安だったかもしれない。けれどそれだけではない。長年メシアを待ち望んでいた人たちも、いつしか今までの状態に対して「慣れて」しまっていたから。
 沖縄の基地問題をいつも思う。戦後すぐ基地がのこり、70年基地と共に生きてきた沖縄の人たちは、基地がなくなってほしいと言いながらも、生まれたときからそれを経験しているため、ある意味慣れてしまっている。私自身、米軍機の騒音にも慣れてしまっていた。救いや平和を期待し、願いつつも、実は本気で待っていない場合がある。実現しないと思っていたり、もっと先の話だと思っていたりすると、「待っている」ことが「待っているつもり」になっていることがある。でも「新基地を辺野古に作る」という話が出たときに、「これは反対しなければ」と気づいた。「私たちは慣れてしまっていてはいけなかったのだ」と気づいた。何かが変わり始めようとしているとき、その変化を、私たちが待っていた変化であるかどうか真剣に考える時を迎えたのだと思う。
 もしかしたら、ヘロデの支配も側近にとっては「慣れ」があったかもしれない。「意外といい王様だよ」と思っていたかもしれない。たくさんの人殺しをしてきたけど、反省しているらしい。平和を望んでいるらしい。私たちのために祈ってくれているらしい。いい王様だよ、と。そうやって自分で自分をだまし、ごまかしていたのかもしれない。それでは本当の平和を待ち望むことはできなくなってしまう。
 天皇の代替わりが近づいてきた。「今の天皇は、戦争を始めた人じゃないし、むしろ平和を願い、私たちのために祈ってくれている、親しみやすい、いい天皇だ」「自ら天皇の地位を退くなんて、なんて人間的な方だろう」そんな声を聞いた。代替わりは国民的行事でもいいと思っている人たちも増えつつある。とんでもない。かつて「国こそが一番大切。国民はそのために命を捧げよ」と教えた日本。そしてそのトップにいたのが天皇。戦後は「国の象徴」という美しい呼び名がつけられ、そのために「国が一番大切」というモットーを見事に維持する役割を果たしている。総理大臣や最高裁判所長官の任命をし、元号によって時間を支配する。キリスト者は、天皇を「異教」だから否定するのではなく、「戦争を肯定して美化する教えの象徴」である天皇およびその制度を認めないという立場に立たざるを得ない。慣れてはいけないのだ。
 エルサレムの人たちが変化を喜べなかったように、私たちも現状に「慣れて」しまってはならない。クリスマスを喜ばない人ではなく、喜ぶ人でありたいと思う。
                    (たいら あいか)