乾くことのない9月の涙
金 性 済 日本キリスト教協議会 総幹事
 今年8月初旬に、『九月、東京の路上で』という演劇を鑑賞した。もともと、2014年3月、当時日本各地に広がったヘイトスピーチに心を痛めていた加藤直樹氏によって上梓された、関東大震災朝鮮人虐殺に関する著書の題名をそのまま演劇の題名とし、またその著書の内容を大切にしながら演劇として表現するものでした。著書の内容とは、1923年9月の関東大震災に伴って起こった朝鮮人虐殺について、それを目撃した人々の書き残したものなどを通して人の心に残響する残虐な光景の記録を中心とするものでした。演劇の中では数名の登場人物がみなその著書を手にしながら、かつて虐殺の起った場所を訪ね、歴史を想起しながら過去の事実にひたむきに向き合い互いに議論をするのです。そのような展開の中に、1923年当時の緊迫する場面に時々タイムスリップさせるという演劇構成でした。
 この演劇のクライマックスは私を戦慄させました。突然舞台に、極右のヘイト集団に見立てた数名の人々が鉄棒と金網をもって登場するのです。そして次に始まったこととは、その暴力的な集団がその金網のフェンスで、虐殺の歴史踏査をする市民たちを包囲し、閉じ込め、鉄棒でその金網をたたいて回り、威嚇するのです。閉じ込められた人々は震え上がります。しかし、次の瞬間、閉じ込められたある人が「私は日本人です!ここから出してください!」と叫んだのです。私はその台詞を聞いた瞬間、唖然としてしまい、一瞬劇場の出口に至る通路のほうに視線を移している自分に気づきました。帰り道、しみじみとその時の自分を振り返りました。あの演劇のすごさは、あの時、金網で包囲されていたのは歴史踏査に参加した、舞台上の数名の市民だけではなく、そんなに大きくはない劇場の観客全体が極右ヘイト集団によって閉じ込められた感覚を作り出していたのです。私はその演出の技巧に圧倒されましたが、演出家は観客の中に在日コリアンがいることも想定したうえであったかは今もわからないのです。演劇は、最後には「私は日本人です!」ととっさに叫ぶ人間の現実に迫り、「もしこの観客席の自分の隣りに在日コリアンがいたなら、あなたの叫びは何を意味するか」と問いかけようとしたのでしょうか。
 1973年以来、東京都知事が関東大震災朝鮮人虐殺の歴史に対する追悼文を一昨年まで出し続けてきたことは、東京都民に静かに歴史を問い、過ちを悔い、悲劇を繰り返すまいとする誓いと希望の証しであったことでしょう。昨年に続き、今年もその追悼文が東京都知事によって拒まれたことは、演劇ではない私たちの未来に暗い陰を落としているように思えてならないのです。
 「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」(マタイ25:35−36)
このように語られた主イエス・キリストがこの演劇の舞台と私たちのところに来られたなら、二つの言葉を放たれるのでは、と瞑想するのです:
「わたしが在日コリアンだ。」「わたしは不安と敵意、憎しみと差別の牢に閉じこもるあなたたちのところに来た。」 (きむ そんじぇ)