被害者を叩く社会とは

古賀 清敬 日本キリスト教会靖国神社問題特別委員会委員長
 平和を実現するためには、正義と公正とが欠かせない。また、そのために愛に根ざして真理を語ることが必要である。
 沖縄の保育園にヘリコプターの部品が落下した。それが報じられると「狂言ではないか」など嫌がらせメールが殺到して、園関係者も子どもたちや保護者も危険な目に遭いながら、深い心の傷と憤りを覚えられた。その後、今度は小学校に部品が落下すると、「基地のそばに学校を作るのが間違っている」という歴史的経緯を無視する書き込みがあったという。
 佐賀の神崎の民家に墜落したヘリコプターについても、「犠牲になられてお気の毒に」ということで済まされてしまいかねない。死亡した二人の隊員と助かった女の子のトラウマのためにも、原因追及と真実な謝罪、適切な補償とがなされるべきである。
 東京などに避難移住している福島の子どもたちがイジメに遭っているという。多少の補助金がその要因になっているようだが、親がきちんと差別や偏見を正そうとしない姿勢に問題があるし、被災者は生活の基盤を奪われているのだという認識の薄さが気になる。
 元「慰安婦」の訴えに対しても、「商売だった」という心ない言葉が投げつけられる。被害当事者の切実な証言をまともに聞こうとはしない。安倍政権は、政府と軍との関与はさすがに認めるものの、(狭義の)強制性を頑として認めようとはしない。武力を持つ軍と政府の関与以上に強制的なものがどこにあるだろうか。そう言うと、お前は韓国側に立つのかとナショナリスティックな反応が返ってくる。真実は何か、加害者側としての誠実な態度なのかどうかが問われるべきであろうに。
 元朝日新聞記者の植村隆氏が、「慰安婦」の証言テープを元に最初に報じたのが「虚偽」として宣伝されたのに対して、名誉毀損として裁判に訴えている。これは、「慰安婦」問題自体が捏造されたと強弁して被害者を叩き、それで日本人の誇りが取り戻されるかのように錯覚している人々や現政権との闘いでもある。
 それにしても、なぜこのように被害者を叩くような社会なのだろうか。思うにそれは、犠牲を強いて、犠牲を甘受する者には美談として称賛するが、犠牲の不当性を訴える者には不寛容な意識が蓄積されてきたからではないだろうか。その根っこに「国のため、天皇のため」という靖国思想の呪縛があろう。しかし、たとえ命を捧げる犠牲だろうと、愛ではなく間違っている場合があり、曖昧さに覆われている。まして隣人愛は「自分を犠牲にして」ではなく、「自分を愛するように」なのである。 
              (こが きよたか)