「ひれ伏して拝む」

星出 卓也  西部柳沢キリスト教会牧師

 「そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」マタイ:2:11

 この箇所には遠い東の国から礼拝するためにやってきた博士たちと、礼拝をされる幼子が登場します。礼拝するものと、礼拝されるもの。しかし、ここで注目したいことは、普通この世で考えられる礼拝するものと、礼拝されるもののイメージが、逆転しているということです。
 東方の博士たちとは、バビロンかペルシャ帝国の位の高い高官たちです。しかもバビロンやペルシャという国は、この時のユダヤの国とは比べ物にならないほどの大国でした。そのような大国の高官たちがひれ伏して拝んでいる相手とは一体誰でしょうか。博士たちが入った家はベツレヘムの中でも最も貧しい、粗末な家であったであろうというのは充分に想像がつきます。大工という職業は当時の社会の中では身分が低いものでしたからナザレの町でも豊かな家庭ではなかったでしょう。しかも人口登録のためにベツレヘムに移り住んだのですから、生活の基盤もままならず新しい土地で職を探し、家を借りて住んだこの家庭は、きっと貧しさを絵に描いたような家庭であったと思われます。この時、博士たちを出迎えたであろうヨセフの身なりも、そして幼子を抱くマリヤの身なりも、優雅さや飾りが何一つ無いものだったでしょう。さすがにこのときはイエス様が飼い葉桶に生れ落ちてから2年近くたっていたようでありますので、家畜小屋ではなく貧しく小さな家に住んでいたと思いますが、飾り気の無い幼子を見て、これが新しい王だと言われましても、どうやって信じることができるのでしょう。彼らが数時間まえに訪問したエルサレムの神殿の豪華さや、ヘロデの王宮や王のきらびやかな服装。そして祭司長たちや律法学者たちの服装も見事なものだったはずです。しかし、一転してここに導かれた幼子は、そのような飾り一つ無い、付き人もいない。この世の栄誉一切ない。
 さて、この家の中のこの幼子が新しい王として示されて、彼らはどうしたでしょうか。彼らは想像していたイメージとあまりにもかけ離れていたので、当惑して帰っていったか。こんなはずではなかった、と言って肩を落として帰っていったか。用意していた宝物をも慌てて引っ込めて、帰って行ったか。この箇所に、この世で言う栄光や栄華とはおよそかけ離れたこの姿に、彼らが驚いたとか当惑したとは、この11節の中には何一つとして書かれていません。11節は彼らが当初の目的の通りに、礼拝をささげた様子だけが描かれています。さらにこの11節の中で特に注目したいのは、博士たちはこの幼子の貧しさをしかと見て、この方を神として礼拝したというように描かれてある点です。彼らは幼子の貧しさに驚いたのだけれども、示されたところに従って礼拝をささげた、というのではないのです。「見たのだけれども、拝んだ」ではない。「見て、拝んだ」とあり、彼らが幼子の貧しさを見ることと、そのお方に礼拝を捧げることとが当然のこととして描かれているという点です。つまりこの博士たちは初めから、このような王を想像していたのではないでしょうか。もっと厳密に言い換えれば、博士たちは神の栄光というものを、この地上の栄光とは同じように考えていなかったということです。この世で栄光といえば、自分を飾ることであったり、自分をよく見せるということであったり致します。この原則に従えば、他よりもより豪華で、より優雅に飾り立てたほうが、栄光がより大きいということになります。しかし天の栄光というものはそのような原則とは、正反対のものではないでしょうか。
 イエス様は天の御国で偉くなりたいと思うならこのようになりなさい、とマタイの福音書20:25-28で語られた言葉に従うと、神が立てた本当の権威や権力は、この世が考える他人を力で支配するようなものとは違い、むしろ「仕える」という言葉で表され、誰よりも人々に仕え、奉仕するということの中に現れるものです。この世においては偉い人が、低い人によって仕えられます。しかし神の御国の原則ではそれが逆転するのです。人のお世話をし、人のために給仕をし、人のために犠牲を負う人こそが神の国の権威を発揮しているということ。天の栄光というものは、地上の栄光と違い、誰よりも低きにくだり、人のために仕え、犠牲を負い、自分を与え尽くすことにおいて現れるのです。あの博士たちが幼子の貧しさを見て、幼子にひれ伏して拝んだということは、彼らがその幼子の低さの中に、まことの栄光というものをしっかりと見たからではないでしょうか。
 私たちは救い主の低き姿に驚きます。私たちが驚くのは、私たちの「栄光」についての価値観が、この世の価値観に毒されているからではないでしょうか。「栄光」というとこの世の価値観をそこに読み込んで、自分を飾り立てることが栄光と思い込むのです。神の栄光を語るにおいて、パウロはキリストのへりくだった姿を指し示します(ピリピ人への手紙2:3-1)。今の時にはこの世の人の目からはこの神の栄光は隠されています。隠されているといっても隠れているわけではなく、しっかりと現れてはいますが、世の価値観が歪んでいるために、はっきりと表されている「栄光」が見えないのです。判らないのです。神の御力がローマ人にとっては愚か、ユダヤ人には躓きでしかなかった。
 大国の高貴な身分の高官たちと、貧しい幼子。このコントラストを私たちは見ます。そしてこの世においては高貴な身分の博士たちが、この貧しい幼子にひれ伏しているということは、彼らもまた天の栄光の何たるかをよく理解して、受け止めていたのではないでしょうか。そしてこの貧しく下られた神のひとり子の姿を通して神の栄光を見たのではないでしょうか。私達もここに神の栄光を見ることができるでしょうか。栄光を捨てられたキリストではなく、神の栄光を現されたキリストを博士たちと共に見ることができるでしょうか。貧しく、虐げられた者たちの苦悩の中に、嘆きの中に、キリストが共に呻かれ、苦しまれるその栄光の姿を見ることが出来るでしょうか。
         (ほしで たくや)