「平和を創るわたしたち」

岡田 仁   富坂キリスト教センター総主事


 昨年末から沖縄でのオスプレイ墜落事故と直後の訓練再開、辺野古埋め立て承認をめぐる最高裁判決、稲田防衛相の靖国神社参拝など、平和を脅かす事件が相次いで起きた。「テロを未然に防ぐため」として安全保障体制が国家によって正当化され、産官学軍共同体の強化、さらに武器輸出など戦争体制の常態化へと向かいつつある中、ふと想い起したのが数年前の韓国人合祀取り消し裁判判決であった。
 1910年から植民地下で国や土地、名前や言語を奪われ、第二次大戦では日本軍人として戦死させられ、強制的に靖国神社に合祀させられた韓国人たちがその合祀取消訴訟を起こした裁判で、「日本人」とされた韓国人が、戦後韓国籍を取り戻し、靖国神社に合祀されている親族の霊璽簿を削除せよ、と訴えた。しかしそれは明治天皇の命令で削除できないので、韓国人の控訴人はそのくらいの「寛容」を靖国神社に対して示せ、と裁判所が諭したのである。植民地支配下で隷従を強いられた人々が日本の侵略戦争に駆り出されて犠牲となった上、殺された後も侵略戦争の功労者として侵略国の戦争神社に祭神として祀られている。人権蹂躙も甚だしい。この判決で使われたのが、中谷裁判(山口県自衛官合祀拒否訴訟・1988年)の最高裁判決の内容であった。日本は、自らの行いに対し、他国の人々にまでも「寛容」を押し付けるのだ。寛容とは本来、少数者の人権を守るため多数派に対して向けられた要求のはずであるが、それが少数者に対して説かれる時、支配的意見への同調を強制することになる。憲法改悪、過去の行為の反省の取消し(靖国、「慰安婦」、南京大虐殺など)、「国防軍」の設置を目指す現政権は、沖縄や東アジアの人々に対し、これ以上どんな寛容を示せと言うつもりなのか。
 歴史や事実に背を向けたまま、沖縄を含む東アジアの平和構築や「未来志向」を語ることはできない。いわゆるポストトゥルースは、日本だけではなく世界の状況である。事実の無視が感情を煽っていく。事実や真実よりも、自分にきき心地の良い情報のみを受け入れる傾向は、弱体化するメディアだけの責任ではない。不安を煽られやすい市民・社会の現状を克服するためにも、国際的に開かれた個の確立が必要であろう。韓国の民主化闘争がそうだったように、歴史を変え、新しい時代を創るのはいつも少数者だ。志を持つ者は僅かでも国の内外に存在している。ここに希望がある。出会いと学びを通して何が真実かをみ極め、虐げられた人々と苦難を共にされる神の言葉に耳を傾けたい。祈りと対話は勿論だが、世界の全ての人が、沖縄や東アジア、パレスチナに関心を寄せれば、平和は実現すると思う。
                        (おかだ ひとし)