「十字架によって敵意を滅ぼされた」
   渡部 信   一般財団法人日本聖書協会 総主事 
 


 今年の夏、広島市の平和記念資料館を訪れ、戦争の悲惨さを新たに感じさせられた。この戦慄は、過去カンボジアのトゥール・スレン虐殺博物館を見学した時に、ポーランドのアウシュビッツ・ビルケナウ博物館を訪れた時に、そしてリトアニアのヴィリニュスで旧ソ連時代に秘密警察(KBG)が市民を捕らえて日ごと10人づつ拷問、処刑し、計3万人が犠牲になった建物の地下牢(現在は博物館として公開されている)に足を踏み入れた時に、覚えた衝撃と同じだった。人間の理性を超えた狂気がそこにあった。
 人間は、夫婦間、親族間、民族間、国家間でも、敵意を醸造することはできても、和解することは甚だ難しい。敵意は、理性では解決できないのである。否、むしろ理性は敵意を正当化してしまう。ここに人類の罪の深さと悲劇がある。またそのような人類の土壌が放置されるところで戦争・紛争の悲劇は繰り返される。
 新約聖書のエフェソの信徒の手紙 2章14節以下(新共同訳)にはこう書かれている。
 「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。」  規則と戒律では、平和は成就できなかったのである。
「こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」
 この福音を、教会を通して多くの人々が若い時から耳にし体験し正しく理解しなければ、悲劇の歴史は繰り返されるかもしれない。
「キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」
教会の務めは重大である。まず身近な関係から、キリストにある和解の福音を宣べ伝えていかなければならない。小さな敵意は静かに芽生え、その争いは、まず家庭に、社会に、そして国家間で少しずつ成長し、大きくなっていく。聖書の福音を宣教する緊急性はいつの時代も変わらない。聖書はこの二千年間、同じ御言葉を語り続けている。この世の悪は最後に滅び過ぎ去り、神の国が訪れると告げているのである。十字架によって敵意は滅ぼされる。キリストにある和解の福音は、人類の希望であり約束である。
                  (わたべ まこと)