「キリストによる約束」
ヘブライ人への手紙第11章1〜16節
大矢 直人   日本バプテスト同盟東京平和教会牧師   


 私は、現在、日本バプテスト同盟で総主事、東京平和教会で主任牧師として働いています。東京平和教会は、ミャンマー連邦共和国から来られた少数民族の方々を受け入れている教会です。現在は、300名以上の方々が同じ場所で時間を分けて礼拝をしているユニークな教会で楽しく働いています。しかし、昨年、アウンサンスーチー氏が政権を取ったといってもまだまだ国内では、軍政府との戦いがあり戦争が行われているような状況で、実際に、なくなる方も大勢いるのです。
 ヘブライ人への手紙11章13節に、「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました」ということが書かれています。信仰を抱いてこの世を生き、そして信仰を抱いて死んでいった、その多くの先達たちのことを見つめようと言っているのです。そのことによって、神様を信じるとはどういうことか、信仰をもって生きるとはどういうことかが分かってくるのです。
 「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました」と聖書は語っています。しかしどうして、「死にました」と言うのでしょうか。「この人たちは皆、信仰を抱いて生きました。私たちもその模範に従って、信仰を抱いて生きていこう」というのではいけないのでしょうか。実はそこに、ここでヘブライ人への手紙が語っていることのポイントがあります。ここは、「信仰を抱いて生きた」ではだめなのです。「信仰を抱いて死にました」と言っていることに意味があるのです。
 そのことによって聖書が教えていることは、信仰というのは、生きている間だけのことではない、ということです。この世を生きる私たちの何十年かの人生、その間を神様を信じて、それによって支えや慰めを与えられて歩めればそれでよい、というものではないのです。これは私たちがしばしば陥る信仰の上での間違いなのではないでしょうか。
 13節後半の「約束されたもの」というのは、神様が与えると約束してくださった救いの完成です。私たちが罪と死の力から解放され、また一切の苦しみや悲しみから解き放たれて、神の子として、もはや死ぬことのない永遠の命を生きる者とされることです。
 信仰を抱いて死んだら、次は、永遠の命に生かされる約束を神様が与えてくださるのです。だからこそ私たちは恐れることなく、生きていく事ができるのです。この世の平和を求めつつ、平和を作り出していく者として歩みましょう。
                     (おおや なおと)