どんな僕でも、二人の主人に兼ね仕えることはできない。
あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。
(ルカ16:13)
小橋 孝一   日本キリスト教協議会(NCC)議長   


このイエスのみ言葉は、今私たちが心の底から聴き従わなければならないみ言葉です。安倍政権が私たちに突き付けているのは、私たちが神の僕(奴隷)として生きるのか、それとも富の僕(奴隷)として生きるのか、の究極の選択です。いったい自分はどうなのか、真剣に自らに問わなければなりません。
 日本キリスト教協議会(NCC)は昨年三月の総会で、今総会期の三年間「わたしの後に従いたい者は自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従いなさい」(マタイ16:24)のみ言葉に聞き従って歩むことを決意しました。勿論これは「神の僕(奴隷)として生きる」ことと同じです。
 その具体的実践として、一.共に伝道しよう(マルコ1:14~15)、二.社会の中で共に証していこう(マタイ26:52)、三.広く世界の友と連携していこう(使徒2:7~11)など六項目をあげ、特に第二の項目に関しては、昨年七月に「敗戦70年にあたって、日本キリスト教協議会(NCC)議長談話」を発表し、その基本線に立って微力を尽くして来ました。
 その中で痛感させられているのが、上記の二つのみ言葉の真実さです。目先の情勢は変化します。だが安倍政権の「日本の国(民)を、富の奴隷として生きるものとする」方針に変わりありません。「それが日本の生きる道」と信じているのでしょう。だから現地に対して「札束で頬を叩く」ようなことを平気でするのです。だが「富国強兵」の道は再び神に裁かれる滅びの道です。
 私たちは今こそ、日本社会に向かって、その一人ひとりに対しては、「時は満ち、神の国は近づいた。『悔改めて』福音を信じなさい」と叫び、迫らなければなりません。そのためにはまず私たち自身が自らをみ言葉によって省み、常に「悔改め」なければなりません。
 自分を顧みても、社会と見ても、道ははるかに険しく遠い。だが「日毎にごく僅かでも進むことができないくらいに、不幸な歩みしかできない人は一人もいない。・・・我々は成功の僅かさに失望してはならない。事態は思うほどうまく行かなくても、今日が昨日にまさっているならば、我々の業は失われてはいないからである」(カルヴアン)。
 焦らず、諦めず、執念深く、主にある希望を抱いて、共に進みましょう。
                 (こばし こういち)