解放と救いは痛みを知る底辺の人たちから

「もう一つのクリスマス」


本田 哲郎(ほんだ てつろう)/釜ヶ崎・フランシスコ会


 歳末大売り出しにはずみをつける商店街のクリスマス・・・よそいきを着たクリスチャンたちが賛美歌をうたい、キリストの誕生パーティーを楽しむ教会のクリスマス・・・。どちらにも手がとどかない仲間たちがいます。イエスが自分の身内(きょうだい)だといった、飢えと渇きに苦しんでいる人たち、着の身着のままで住まいを失った人たち、病気をしても見舞う人もない人たち、よぎなく法を犯して収容所や留置所・刑務所に入れられている人たち、この社会で「いちばん小さくされている人たち」(マタイ25:35−45)です。この仲間たちがホッとできるクリスマス、あったらいいですね。

 救い主イエス・キリストは、家畜小屋でうぶ声をあげたみたいですね。マリアは「その子を布でくるんで飼い葉おけにねかせた」という。なぜ、そんなところで出産することになったのですか。ルカ福音書は「宿屋にはかれらの居場所がなかったから」と書いていますが、でも、それってへんですよね。これはどうも、マリアの妊娠が結婚相手であるヨセフのあずかり知らぬことであったということと無関係ではなさそうです。マリアの妊娠は、ヨセフとしては身に覚えのないことだった・・・。けれどもヨセフは、日ごろから「解放をこころざす人」、人の痛みを見すごしにできない人であったので、マリアをさらし者にするにしのびなくて、「ひそかに縁を切ろうと決心しました」という。ヨセフにそこまで決心させたということは、ヨセフにしてみれば、どうひいき目に見ようとしても、マリアの不実は否定のしようのない事実だったということです。
 マリアの身近な人たちの目にも、同じように映ったにちがいありませんマリアの妊娠にともなう、ヨセフとマリアの不安と同様、くったくありげなようすを、身近にいる家族の者たち、日ごろ親しくしている近所の人たちが気付かないはずはありません。「マリアの妊娠はヨセフの子じゃないらしい・・・」。こうなると、もう世間はマリアをふしだらな女としか見ません。そういうマリアと平気でいっしょになるヨセフも、ユダヤ教の律法のきまりで同罪でした。当然、身ごもったおなかの子も、罪にけがれていると見なす世間でした。すでにこのときから、「罪人」のレッテルを貼られたマリアとヨセフと、そしてイエスだったのです。

 さて、ベトレヘムのヨセフの親類たちにも、このカップルのうわさはすでに届いていたはずです。ベトレヘムは小さな村です。あんのじょう、宿屋でもふたりは断られています。ルカ福音書が「かれらのためにはなかった」といっているのは、ギリシャ語でトポス、すなわち居場所です。泊まる場所とか空室がなかったのではなく、「あんたたちはお断りだよ」と言われたということです。ふたりは村の宿屋でも排斥されて、せめて雨露をしのげる家畜小屋に身を寄せるしかなかったと、ルカ福音書は言っているのです。

 こうして、すべての人の救い主イエス・キリストは、人間社会の底辺に立つ「けがれた罪人」のひとりとして、人類の歴史に降誕したのです。母親マリアと養い親ヨセフ双方の負い目と、同じように差別と排斥を受けている貧しい人たちの負い目を、ともに担うイエスの誕生でした。差別される痛みを身をもって知っておられる主、貧しさというものがけっしてきれいごとですまないことを分かっておられる方が、救い主として来てくださった・・・。聖書が告げていたのはこのことでした。
 こうして救い主のことを思うとき、なぜか力がわいてきます。安心して身を任せることができそうで、「主よ、来てくださって、ありがとう!」と心から言えるような気がします。そうではありませんか。

 ところで、イエスが生まれたとき、だれかヨセフの身内の人たちで来てくれた人はいたのでしょうか。聖書の前後のいきさつ(文脈)が示唆するかぎりでは、だれもいなかったみたいです。しかし、かけつけてくれた人たちがいました。思いがけない人たちでした。近くで野宿をしていた「羊飼いたち」だった(ルカ2:8−20)というわけです。
 羊飼いの人たちは「道をはずれた人たち」(罪人)と見なされていたことを、わたしたちは知っていたでしょうか。羊飼いは、草を求めて野宿をしながら羊やヤギを追っていく暮らしで、律法の安息日の決まり(何キロ以上歩くな、火を使うな。会堂での集会に参加せよ・・・)を守れず、けがれと清めの掟に触れることが多かったために、世間的には罪人と見なされていました。ようするに、ユダヤ教の律法の、安息日、禁忌事項、食物規定などをきちんと守ることが困難な職業につく者とか、神からいただいた自分のいのちを危険にさらすことになる職業の人たち、また、貧しさのために清めの儀式をしてもらうお金がなくて、きょうのけがれをあすまで引きずるしかなかった人たちはみんな、「罪人」と見なされたわけです。

 一方、マタイ福音書では、はるばる東の国からやって来た「占い師」のことが記録されています。「占い師」は、原文ではマーゴイと書かれていますが、これはギリシャ語ではなく当時のペルシャ語からの外来語だそうです。すなわち、ユダヤ社会にとっては異質な、その存在を認めるわけにはいかない邪教の占い師たちというニュアンスです。ルカ福音書で、登場した羊飼いたちよりはるかにうとましい、ユダヤ教社会にとって危険な「罪人」と見なされたはずでした。世間から差別され、いやがられている者たちということで、「羊飼いたち」と「占い師たち」は、同じように痛みを知る人たちであったわけです。マタイとルカがそれぞれ異口同音に語っているのは、「このような人たちこそ、貧しく小さくされた者として誕生した人類の救い主と出会っている・・・、このような人たちこそ、心からその誕生を祝う感性を身につけている」ということでしょう。

 わたしたちはクリスマスを迎えるたびに、どのような救い主に思いをはせるのでしょうか。もし、「馬小屋」のセットのまえに立つことがあるなら、そこに「けがれた罪人」として差別され、排斥されたイエスを、そして痛み、苦しみ、さびしさ、くやしさを、現に身をもって知る救い主を、しっかり見つめたいものです。
 生まれ落ちたそのときから社会の底辺に立たされ、「学問をしたこともない」(ヨハネ7:15)、食い意地の張った酒飲み」、「道をはずれた連中(罪びと)の仲間だ」(マタイ11:19)といやしめられた救い主イエスでした。真実を見抜く感性がとぎすまされないはずはありません。イエスは自分と同じようにしいたげられた貧しい仲間たちに、共感と思いやりを示して勇気づけてくださる救い主でした。「わたしが来たのは、まっとうに暮らせる人たちをまねくためではなく、『罪びと』たちをまねくためである」(マタイ9:13)と宣言する救い主です。また、それは同時に、けがれているとか清いとかで差別の線引きをする宗教家たちの欺瞞をあばき、貧しい人たちをないがしろにする金持ちたちをきびしく非難して、「低みからの見直し」(メタノイア マルコ1:15)をうながす救い主でした。
 救い主イエス・キリストは、今もなお、痛みを知る底辺から立つ仲間たちの、とぎすまされた感性をとおして、解放と救いの道を示しつづけています。イエスがいわれた、イエスの身内(きょうだい)である「いちばん小さくされている人たち」の痛み、苦しみ、さびしさ、くやしさ、怒りにしっかりと連帯する「もうひとつのクリスマス」を、みんなで祝いたいですね。

(ほんだ てつろう)






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