平和憲法と教会の教え


幸田 和生(こうだ かずお)/カトリック東京教区補佐司教


 今年も8月6日〜15日、日本カトリック平和旬間が行われました。ヨハネ・パウロ2世教皇の広島での平和アピール(1981年)に応える形で毎年、この平和旬間が行われています。東京教区の今年のテーマは「平和憲法と教会の教え」。司教としてのコメントを求められた機会に以下のようなお話をさせていただきました。

 日本の憲法とカトリック教会の教えはイコールではない。日本は1945年の敗戦を機に、戦争への反省から、戦争放棄と軍隊の不保持を憲法で定めるようになった。教会の教えとしてはヨハネ23世教皇が1963年、回勅『パーチェム・イン・テリス(地上の平和)』で、「原子力時代において、戦争が侵害された権利回復の手段になるとはまったく考えられません」と述べた。またヨハネ・パウロ2世教皇は紛争が起こるたびに武力行使に断固反対の意思表示をしてきた。日本の司教団も、戦後50年に「平和への決意」、戦後60年には「非暴力による平和への道」というメッセージを発表した。こうして見ると、教会の教えが日本国憲法の精神に少しずつ近づいてきたのがわかる。

 武力によらない平和を希求する日本国憲法の精神は、その前文に現れている。この精神を実現するために、政府に対して戦争と軍隊の保持を禁じたのが第9条である。憲法は政府の暴走から国民を守るためのものだということを忘れてはならない。

 憲法を変えて、あるいはその解釈を曲げて、現政権が向かおうとしているのは軍事力(防衛力)の強化である。小さな島の争奪戦を制してもそれで紛争が解決するはずはない。それは長く続く悲惨な戦争の始まりでしかない。まさか本気でそうしたいわけではあるまい。だとしたら、日本が軍備を増強することによって、他国の侵略を抑止するという考えなのだろうか。この抑止力と言う考えをどう乗り越えるか? 憲法前文は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」というが、本当にそれで平和が守れるかと不安に思う人は少なくない。しかし、教会の教えは軍備競争による抑止力という考えをはっきりと拒否する。「軍備競争は人類の最大の傷であり、堪えがたいほどに貧しい人々を傷つけるものである」(『現代世界憲章81』)。問題は抑止のための軍備増強には歯止めが利かないということ、それによって多くの人の生命・生活が奪われて行くこと。軍事力というものがいったい誰を、何を守ろうとしているのか、本当に問わなければならない。沖縄の現実にその答えがあるではないか。

 戦争のできる国を作るということは、外国に力で対抗するということだけではない。それ以前に、国内で戦争に反対する意見を抹殺しなければ、外国との戦争はできない。戦争に人権抑圧はつきものである。政府は「国民を守る」と言いながら、本当は何を守ろうとしているのか。周囲の強国に対抗するために自分たちにも王を求めたイスラエルの人々に対する、サムエル記上8・11−18の警告を噛み締めたい。





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