見張りが声を上げるとき


鈴木伶子(すずき れいこ)/日本YWCA


 以前、多くのキリスト教の教派・団体が「戦争責任告白」を表明しました。アジア・太平洋戦争中に教会が権力に妥協して戦争協力の一端を担ったことにつき、神と隣人に罪の告白をしたのです。平和のために働くべき教会がなぜ戦争協力をしたのか、いのちを守るべきキリスト者がなぜ殺戮に加担したのか、私たちは、その当時の状況の厳しさと、キリスト者の苦悩を想像し、二度とそのような事態を招いてはいけないと決意をしています。
 そのように私たちは、自民党の「改憲案」に、敗戦前の事態が再現されるという危機感を抱かざるを得ません。「改憲案」を読み、「いつか来た道」を思わせる点を挙げてみます。
 誰もが危惧するのは、国防軍の設置です。”我が国の平和と独立”を侵すものに対して戦うとあり、中国や北朝鮮と戦う態勢が整えられます。”国際社会のために国際的に協調して行われる活動”に従事するということで、イラク戦争のような場合には、米軍と一緒に前面に出て戦う可能性が生じます。
 戦争協力のためには、国民を従わせる必要があります。国民の責務として「公益および公の秩序に反してはならない」とし、表現の自由も制限つきです。国の意向に従うことが強制されます。政教分離原則に、「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないもの」という例外を設けます。かつてのキリスト者が、習俗的行為だとして神社に頭を下げたことを思わずにはいられません。政教分離の規定は、政治が国家神道と一体となって戦争に突き進んだことへの反省から生まれたものです。それに「例外」を付ける意図は何でしょうか。
 「改憲派」は、天皇を元首とし、国旗・国歌の尊重を義務付けます。敗戦前のキリスト者は「天皇と神はどちらが上か」と詰問され、キリスト者は非国民とレッテルを張られました。神ならぬものを神とすることは出来ないとして、殺された人もいました。
 与党が参議院選で多数を占めれば、「いつか来た道」へと導く「改憲案」は現実化します。
 「戦争責任告白」は神ならぬものに頭を下げ、隣人、特にアジアの人々を傷つけ、命を奪ったことに対して、神と隣人の許しを請いました。神の国の実現という、真実な生き方を示されているキリスト者の使命は、国が誤った方向に進むときに警告の声を上げる見張りの役をすることです。後世の歴史の審判、世界のまなざし、そして何よりも、終わりの日に神の前に立つことを覚え、祈り求めながら、「平和を実現する」ものとして働きたいと思います。
 今号は、「改憲案」を危惧する事務局メンバーが、自分たちの思いを書いています。皆さんの周りでも話し合いを進めてくだされることを願っています。





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