「世に平和を」


日本バプテスト同盟理事長・同 磯子の丘教会牧師
山本富二(やまもと とみじ)



 「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」ヨハネによる福音書16章33節

はじめに
 主イエスは、はっきりと「あなたがたがわたしによって平和を得るためである」と言っておられます。聖書を通して主イエスに聴き、生きる時、そこに平和があります。しかし、世(コスモス)であるわたしたちは、初めから主イエスと緊張関係にあり、しばしば対峙し、主イエスから遠く(ヨハネ1・9)に依存しています。
1 主イエスと世
 ヨハネによる福音書は、わたしたちを「世」と述べ、主イエスと対峙している存在と見ています。(「世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」ヨハネ1・9,10)その対峙している人々(世)を神さまは愛され、御子によって世が救われるために、御子を世に遣わしました(ヨハネ3・16,17)。そして、現在、世の光として輝いています(ヨハネ8・12)。
2 世での苦難
 主イエスを認めないわたしたち(世)は、その人々(世)の中にあって「苦難」の中に立たせられています。
 現実に貧困であり、病の中での苦痛があり、また、どのように解決したら良いか悩み、苦しんでいます。それは、人間の配慮の少ないところから来る失敗であり、また自然現象による思わない出来事に遭遇する苦しみでもあります。
 さらに、「世の光」として主イエスを受け入れているはずの教会の中に、この「世」の姿と同じような苦難もあります。人々(世)に光を輝かすはずの教会のジレンマでもあります。
3 わたしによって平和を
 主イエスは、はっきりと「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである(ヨハネ16・33)」と言っておられます。「わたしによって」とは「わたしの中で」ということです。主イエスの中でとは、主イエスが贖い主として神さまから遣わされ、十字架の贖いによって、わたしたちを導いているという主の「愛」の「中」にあることによる平和です。すなわち、わたしたちも愛の中に入れられ、愛を受け、愛の感化を与えられているという平和です。
 一方で、わたしたちは主に対峙している「世の中」にあり、苦難のただ中にあります。同時に主イエスの「中」に礼拝の中で戻されつつ生きる時、そこから平和が始まっているのです。真に主に戻されつつ「世の中」での使命に生きたいものです。
おわりに
 キリスト教の全ての働きが、常に主イエスの中に戻されつつ勇気をもってなされますようにと祈っています。





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