67年目の長崎原爆忌に思ったこと


日本カトリック正義と平和協議会事務局長・司祭
大倉一美(おおくら かずよし)



 猛暑の今夏、私は被爆67年目を迎えた長崎に行きました。原爆が投下された午前11時2分から浦上天主堂でレクイエムミサが始まりました。あの日、天主堂は爆風で倒壊、炎上し側壁が一部残るだけでした。2人の神父と信徒20余名が即死し、浦上地区1万2千人のカトリック信徒のうち8千5百人が命を落とされたのです。「原爆・すべての戦争犠牲者追悼ミサ」にあずかりながら、長崎の信徒たちがキリシタン黄金時代、迫害の時代、明治におけるキリシタン再発見とその後に起きた迫害、そして被曝の苦しみを乗り越え信仰を護り、証しして来たこと、そして核廃絶のために立ち上がったことなどに思いを馳せました。
 長崎に福音の種を蒔いたのは、言うまでもなく聖フランシスコ・ザビエルでした。ザビエルは1550年8月末頃に鹿児島県から船で西九州の海岸に沿って着いて数人に洗礼を授けました。長崎の教会は1597年2月5日西坂の丘に流された二十六聖人たちの尊い血によって「義のために迫害されるのは幸い」というイエスのみ言葉を証ししています。
 1614年1月27日、家康による禁教令によって多くのキリシタンたちが殉教しました。長崎で迫害は崩れと呼ばれ、1790年浦上三番崩れなどがあります。1865年3月17日に大浦天主堂でキリシタンが発見されたその直後から1873年(明治6年)まで浦上四番崩れと呼ばれる大迫害が起きました。
 原爆投下が「浦上五番崩れ」だと思った人たちもいます。「にんげんをかえせ」と原爆を鋭く告発したのは広島の詩人峠三吉、長崎で被爆した永井隆博士は「灰の中に伏して神に祈る」と「長崎の鐘」に記しています。そのためか、二つの被爆地は「怒りのヒロシマ、祈りのナガサキ」と大国の核兵器保有を声高に非難するのが広島、世界の平和の実現をひたすら祈念するのが長崎、と何時か言われるようになりました。
 1981年に教皇ヨハネ・パウロ二世が広島を訪れ「平和アピール」を発表し、次いで大雪の中、長崎で平和ミサを挙行されました。以来、長崎の信徒たちは核兵器廃絶を目指す平和運動を積極的に進めるようになりました。2010年被曝のマリア像を国連本部まで高見大司教が捧持して行き、国連事務総長に核兵器廃絶を訴えました。また同年2月26日高見大司教は広島の三末司教と共に、「世界で唯一の被爆国である日本のカトリック教会の広島、長崎における司教として、またわたしたちの最高指導者であるローマ教皇の意向に合わせて、米国大統領と日本政府及び世界の国の指導者に核兵器廃絶に向けて最大限の努力を傾注してくださるよう要請します。」というメッセージを出されました。
 さらに福島第一原発事故を目の当たりにして、日本カトリック司教団は原発に対するより踏み込んだ明確な姿勢を打ち出したのが「いますぐ原発の廃止を」という画期的なメッセージです。被爆地広島・長崎からの声が原点になっているのだと思います。





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